(話は前後するかも - -ご容赦ねがう)
表題の「疎開」という言葉も今では死語となってしまったが、いよいよ日本の戦局が悪くなり
本土空襲も度々になると 都会の児童は集団または個別に田舎へ一時避難することになった。
そのようなことで以下の記述は 私と姉、母三人が 母屋から五分位歩いた所に建つ道具小屋
に一時住ませてもらうことになった時の記憶である。
おばあちゃんは、母屋から少し離れた隠居部屋でほとんど寝て居て、私が顔を見せると
おいでおいでをして、蜜柑を一つ布団から出し私の手にのせてくれるのだが その蜜柑が
いつも暖かかったのを覚えている。
この隠居部屋は二階が有り、あまり使われてない納屋になっており、ここに おわら節に
唄われている (棒で突っ張って開ける木の)「押し開け窓」があったが
私はこの窓を押し開けて、季節季節の広々とした水田や実りの風景を見るのが何故か好き
だった。