Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

どれほど重いかその両腕

2019-12-06 | 雑感
翌日も樹氷が残った。ここワイン街道では、氷点下も樹氷も珍しくはないが、雪も乗らずにこうして残ることはそれほどない。一度記憶にあるのは一月に氷点下二ケタ台になってしばらく続いた寒さだが、その時も雪が地面に乗ったままだった。それ程の放射冷却で陽も射す。写真を撮りに行く時間はなかったが、温まった部屋にいると我慢出来なく眠気が押し寄せる。

週末の夜は、先ほど逝去したヤンソンスを偲ぶミュンヘンの放送交響楽団の演奏会の生中継から始まる。指揮はヴェルサーメストで、プログラムがシュトラウス作曲家庭交響曲から「死と浄化」に変更になっている。

先だってマリス・ヤンソンスについての思い出が語られている。メストが最初にヤンソンスの指揮を聴いたのは学生時代にトーンキュンストラー管弦楽団を振った時で、その後知り合って、ヴィーンの国立劇場での練習中で、自分自身はノイヤースコンツェルトを振る前だったが「肩に両手を置いて、どれほど重いかを知っているのは私だけだよ」とのエピソードを語り、「分別のある最も親切な指揮者仲間だった」という。

シュトラウスを交換したのに対してアブラハムの曲はそのままで、ヘンツェを偲ぶ曲と今回の初演の現実的な問題以上にその抒情がマリス・ヤンソンスに合うと思うとしている。機会も機会であるが、格上のメストがどれぐらいの指揮を出来るのか楽しみだ。ここ暫く故人の指揮で聴くに堪えない演奏しかされていなかったので、夏のネゼセガン指揮に続き、管弦楽団の現在の実力が分かると思う。時間があれば出かけても良いぐらいに思った。プログラムも面白い。

夜分ネットをサーチでYouTubeでは消去されていたバーデンバーデン祝祭のヴィデオ集が出て来た。興味深いものもあった。記憶に無いものもあった。特に記憶になかったのはティーレマン指揮のシュターツカペレとミュンヘンフィルでの二つのシュトラウスの楽劇上演で、「ばらの騎士」の方はメディア化されていて内容も知っていたが、前者の「アリアドネ」は全く記憶になかった。そもそもあの当時はあまり出かけておらず、既にカラヤン財団はザルツブルクからバーデンバーデンへと移っていたが、復活祭音楽祭は2013年までザルツブルクだったからである。それでもその間にベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン賞を授与するなど徐々に関係は深まっていて名演もなされていた。しかし主軸はヴィーナーフィルハーモニカーの方であった。だからシュターツカペレドレスデンのオペラ舞台上演は殆ど興味の対象にもならなかった。益してミュンヘンフィルのオペラ上演は、こけら落としのケントナガノ指揮のベルリンの放送交響楽団演奏の「パルシファル」上演以上には期待させなかった。しかし何よりも気が付いたのは幕がある祝祭劇場の舞台だ。あれならばカーテンコールも可能だ。



参照:
なにも顧みることなく 2019-12-02 | 文学・思想
幕が掛かって湯煙 2019-12-01 | 文化一般



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