Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

あれは何年前の雪だろう

2020-12-01 | 雑感
夜中は初雪となる様子だった。朝も放射冷却で寒かった。翌日は足元も悪そうなので、陽が強く射したところで短く走っておいた。零下二度だった。始めてネックウォーマーをしたまま運動した、それ程汗を掻くほどのことは無かったので全く苦にならなかった。手袋とこれだけで大分体感温度が変わる。一度洗濯をしてみて様子をみる。

舞台上の社会的間隔のことは、実は今回のロックダウンライトにおいて再び注視喚起されたその距離とも関係している。つまりドイツにおいては1.5mが安全距離とするのは再び日常生活で強調される。それは科学的にも正しいのだが、社会政治的にあまりにも安易にマスクが重視されていたものだから再び強調される必要があった。

そして日常のマスク以上に防護マスクが重要視されるようになった。ドイツで保健相シュパーンの防護マスクが四億枚配られる。日本のアベノマスクとは流石に異なるが、既に中共製の不良品も話題になっているのは同じである。兎に角防護をしなければいけない人は本格的なマスクをして欲しい。肉屋に立ち寄ったら婆さんがそれをしていたので大分情報も普及しているようだ。

そのように舞台上でも1.5mは基準であり、それより近づくのはPCR検査以外にもそれなりの根拠が必要である。成程最初から3フィートから5フィートぐらいとなっていたので、日本やオーストリアの様に1mを基準としている国もあるのかもしれない。背丈や手の長さもあるので一概には短すぎるとは言えないが、少なくとも腰掛けたりする場合のその距離は争いようがない。

マスクが注意喚起効果以上の実際の感染防止効果が殆ど無いことは、列車での旅行の禁止とか店内での人数制限とかあらゆる面において再び明らかにされて来ている。防護マスクでの長旅やオペラ感染などは息苦しくて不可能である。呼吸し易いマスクなどには防護効果など期待できない。

ミュンヘンの劇場からメールが入っていた。今後の予定に関してだ。そして劇場からの中継ストリーミングを流した。カウフマンが歌う「ボエーム」で思い掛けなく立派なオットーシェンクの舞台で演じられていた。ボエームと言えばスカラ座のパヴァロッティとフレーニが歌ってクライバーが指揮するのが標準になっていると、このシェンクの演出もちっとも面白くない。歌のことはもうどうでもよいが、管弦楽が拡張した奈落の中で無観客の残響長く奏でるのを聴いていた。指揮者は日本にも帯同したフィッシュで、初めてだがやはり荒っぽい。流石にジンタの様には管弦楽団も弾かないが、あれが一流所と二流所の違いだ。フィッシュでも捕まえる方のフィッシャーでも皆同じ程度の便利屋さんでしかない人が振るオペラは退屈極まりない。

耳直しに欧州ツアー時のダマロウとの「最後の四つの歌」のヴィデオを鳴らした。もう既に時が経って「あのペトレンコが振っている」という感じになって違和感を覚える程だ。もう一つのプログラムをボンに聴きに行ったものだから同じプログラムをフランクフルトでやっているのも聴かなかった。なぜならば座付管弦楽団の演奏会などどうでもいいと思っていたからで、今から考えると残念な事をしたと思う。もっと追いかけておくべきだった。

次には座付楽団を久しぶりにいつ振ることになるかはコロナのお蔭ではっきりしない。しかし、何か遠い昔のような懐かしい感じが我々聴衆だけでなくて指揮者と楽団の間に生じるのではないかと思う。特にこうした管弦楽歌曲などを伴奏する座付管弦楽団はベルリンのフィルハーモニカ―では出来ないような演奏をする。本当に貴重な演奏だ。こういう指揮を出来るのが一流以上の指揮者で、フランクフルトで聴いたオクサーナ・リニヴもまさにそれで、ヨアンナ・マルヴィッツはまだその域には達していない。



参照:
お目当てのヴィデオ 2016-10-01 | 文化一般
ドイツ的に耳をそばたてる 2016-09-18 | 音

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