東日本大震災以来、途切れたままの常磐線。
 
しかし、正確には途切れっぱなしではなく、JRや関係者の皆さんの努力のおかげで、別の形で路線はつながっています。
 
 
 
それが、代行バスでございますね。
 
この富岡駅前には、駅のある富岡市を中心にめぐる路線バスと、現在復帰している常磐線浪江駅、その先の原ノ町駅をつなぐ列車代行バスの停留所がありました。
 
普通の路線バスは運休状態の路線がまだまだ多いようです、てか、ほとんど。
 
代行バスは、常磐線をつなぐために作られたものであり、線路が完全復活すればなくなるものですね。
それがいつなのか、まだわからないのが悲しいところですが、とにかく、先へは行ける。
これは大きい意味があると思われます。
 
 
 
それでバスに乗り込んだのですが・・・社内撮影禁止と言われました。

ひょっとして聞き間違えて車外も撮影禁止なのだろうか?とか思いましたが、通り過ぎる車窓を見ると、そんな注意も関係なしに、気持ち的に撮影はできませんでした。
 
この上の画像は別の場所を電車の車窓から撮ったものです。

富岡ー浪江の道中、こんな感じの風景もあるにはあったのですが、決定的に違うのは、みどりの平面は田んぼではなく、田んぼであっただろう雑草が生い茂る草原と化していたことです。
 
通った道は国道6号線で、常磐線と並走している道路だったのですが、この道もこの区間は自動車のみ通行可で、その他は禁止、途中下車も禁止。
 
バスは、現在も帰宅困難区域となっている場所を通ったのでした。
バスに乗ったからこそ見えた景色は、普通の住宅街や国道沿いによくありそうな大型量販店や自動車販売店、それにチェーン展開されている飲食店など。
 
どこでもよく見かけるような光景でありながら、そこはゴーストタウンでした。
まだ新しそうなきれいなデザインの住宅も、繁盛していただろう量販店も、みんな無人。
入り口には行政が設置したらしい工事現場のもののような囲いがされ、どこも立ち入り禁止。
 
そもそも、簡単に入れないくらいに入口に雑草や生い茂った庭木が茂りまくっている建物も多数。
 
 
やっと浪江駅近くにきて、人が住んでいる気配を感じて、本当にほっとしました。
 
でもこの浪江駅周辺も通最近まで帰還困難区域で、ゴーストタウンだったのです。
今現在も、おそらく住人が帰ってきていないだろう家も多くみられました。
ずっと開いていないのだろう商店も多く、駅前でこうなのだから、奥地に言ったらどうなっているのだろうと心配になりました。
 
浪江駅というと、DASH村があったことでも有名です。
何事もなく平和だったころ、テレビに映っていた住民の皆さんは、どんな風に暮らしていたのだろう。
 
でも、今も復興を目指して頑張っている人も多いのだと、それを肌で感じた気もします。
 
 
 
こちらが乗ってきた代行バス。
 
HAMAKOとありますが、浜通り交通というそうな。
 
「浜通り」というと、震災後の余震が起こるたびに、まず名前がテロップで流されることが多かった地名です。
 
それで名前を覚えたというのも複雑ですが、別の形でこの名前を憶えられたのが、ちょっとうれしい。
これからは浜通りと聞けば、このバス会社を最初に思い浮かべるようにします。
 
 
 
一番見たかったところを見て、しかも思った以上に静かに異常な風景に、けっこう衝撃だった私。

あとは腑抜けでボケ~としておりました。

浪江から北も、しばし不通だった区間もありましたが、すでに人が戻って来ている様子が見えて感激。

木が剪定されているのも、洗濯物が干されているのも、人がいるからこそですよね。


 
おっと、これを載せ忘れました。

浪江駅のホームです。

二本の線路の間から撮影してますが、これはその線路の上に渡り橋がかかっているからです。

現在、浪江駅では通常使っていただろう線路は閉鎖中。

駅舎から一番離れた線路一本を使っているようでございます。


この日は常磐線で北に向かって、東北本線で上野に戻って来ようという日帰り計画でした。

仙台駅の手前、岩沼駅は二つの路線が交わり、また離れて行く分岐駅。

朝5時台の電車に乗って、ここまで来た時には午後2時になっておりました。

さて、東京に帰ろう。

今度はゆっくり来たいなあ。



そして、こんな話題の時に何ですが、しばし続けておりました80年代からの女性アイドルの歌BGM紹介ですが、今日から男性アイドル編に変えたいと思います。
 
どれだけの人が興味あるかは謎ですが、その時代のアイドルで、私が興味を持ったことのある人の楽曲をご紹介しますです。
 
人によって知らない歌も出るかもしれませんが、よかったらそこもお楽しみください。
1980年、まずはこの方から。
 
♪ 哀愁でいと  田原俊彦