旧道がまだまだ続きます。
 
大きな木が連なる中、ところどころに案内板が見当たるのですが、こんなのがありました。
 
 
ちょいと前に、二宮駅の南東に東海道一里塚のひとつを見つけましたが、ここにもありました。
 
そうか、あそこから一里歩いたのか、私。
ちなみに最近、一里を「いちり」と読まず、「いちさと」とか読んでしまう人がいると聞いたのですが、本当でしょうか?
教科書にも出てくるでしょ~。
 
 
そこにどっしりと生えている木。
異様に貫禄を感じる。
 
その説明版によると、ここは化粧坂というらしい?
 
「化粧坂」と検索すると、たいていは鎌倉のほうの情報が出てくるので、ちょっと心配なんですが、、、、ここは大磯です。
 
とはいえ、「化粧」という名の井戸があるらしいから、間違ってはいないということか?
この道は坂になってなくて、真っ平らだけど。。。
近所にあるということか?
 
…未確認情報でした。
 
 
井戸はどこかな~~?
 
これか?と道を見るも、あるのはマンホールである。
鎌倉時代にこんなものがあるわけがない。
 
そういえば上下水道っていつの時代にできたのだろう?
上水道のほうは、江戸時代の木製の水道管・木管なるものが工事の際に出土するとか、そういった博物館の展示は見たことがございます。
各家庭に供給されるようになったのは、もっと後の時代カモだけど。。。いやどうなんだ?
 
前に、京王井の頭線とか、JR中央線の旅の時などに玉川上水の話が出てまいりました。
井之頭公園の池の湧水が、地下の木管を通って東側へ、江戸の市中へと流されていたとな。
 
 
今回の東海道線の旅では、井戸という存在をあまり見かけていませんが、ぜったいこの辺にも普通にあったはずなのです。
川が近かったりすると無い地区もあったかもしれませんが、井戸というものは古くから人々の生活を支えていたものなのです。
 
私が力説しなくても、たいていの方はご存じのことではありますが、水は大事だよ~。
 
 
線路の左側にきて100~200メートルか、それ以上かはわかりませんが、しばし来たところでやっとそれらしいモノを発見しました。
 
小さい屋根の付いた何かに、看板。
これだろ間違いない!と、確信。
近づいてみます。
 
 
ヤッタ~あった~見逃してなかった~♪
 
私、心でひそかに喜びの小躍り。
 
民家の真ん前にひっそりと、生垣で囲われたところに化粧井戸はありました。
この画像だと、ちょうど看板の裏になって隠れてますが、この脇の開いているところから中に入ります。
 
 
はい、こちらが化粧井戸でした。
たしかにかなり、周りを囲う意思が古そうです。
 
 
この井戸で化粧をしていたという虎御前という女性は、鎌倉時代初期の遊女だったそうです。
 
遊女というと江戸時代の吉原遊郭とかのイメージがありますが、もっと昔の平安から鎌倉時代あたりの遊女とは、巫女のような役割をすることもある、ある意味神聖な存在ともいわれたらしいです。
 
虎女(とらじょ)とも言われた虎御前は、17歳の時に曽我祐成(そがすけなり)という武士の妾になりますが、この曽我祐成という人物は、弟と共に父親の仇討ちをしたということです、
古典・曽我物語の登場人物であり、当時の歴史書「吾妻鏡」にも登場するので全員実在の人物とされています。
 
 
ものすごい付け焼刃で書いてみますが、曽我兄弟の父というのが、所領相続をめぐってもめていた同族の一人に暗殺されたそうな。
 
幼かった兄弟は母親の再婚先で育って元服するも、ずっと実の父親の敵討ちの機会を狙っていたようで。
1193年に源頼朝が富士の巻狩 (ふじのまきがり)という、簡単に言えば数日にわたる軍事練習みたいなことをしたときに曽我兄弟と仇の工藤祐経も参加していたそうです。
兄弟は最終日の夜に仇討ちに成功するも、兄はその場で殺され、弟も後日死刑となったそうな。
 
虎御前は19歳になっていた時のことで、虎さん自身もこの仇討ちにかかわりがあるかと疑われるも、無罪になったそうな。
しかしその後、寅さんは出家して63歳で亡くなるまでの人生を、兄弟の供養のために生きたといわれているそうな。
 
 
井戸の近くに、風情のあるお蕎麦屋さんがありました。
前に車が止まっていなかったら、時代劇の景色そのままになっていたカモ。
 
妾という立場だったけれど、曽我祐成とは愛し合っていたという虎御前は、出家後の修行などで日本の各地に伝承を残しているそうですが、人生の多くはこの大磯で暮らしていたそうです。
 
 
なかなか壮大な歴史を知ったところで、旧道の出口に差し掛かりました。
目の前の信号で、線路をまたいでやってきた国道1号線と再会します。
 
大磯、まったく知識がなかったのですが、かなり奥深い地だったのですね。
 
♪  アロエ  サザンオールスターズ