私のパフォーマンス理論 vol.40 -成功体験- | 為末大・侍オフィシャルサイト
より
『長く競技を行うならば、どのように成功体験を克服するかが重要になる。
成功体験は人を縛る。
人を過去に縛り付け、固執させる。
ここでいう成功体験は、幼少期に努力してうまくいって自身を得るといった体験とは違い、
ある程度目標も定め競技に労力も割いた結果得られる成功体験のことを指す。
私の競技人生を振り返ってみて、何か大きな落とし穴にはまってしまった時、元々の原因は成功の瞬間にあったと思わされることも多かった。
成功がもたらす害悪は三つある。
成功体験とはつまり記憶であり、成功体験の対処とは記憶への対処になる。
1、原因をわからなくする
2、変われなくなる
3、世間に賞賛される味を覚える
以下、ひとつひとつ説明してみる。
1、原因をわからなくする
スポーツにおいて結果というのはあまりにも強力で、結果さえ出てしまえば全ては肯定される。
それは言い換えると、いい結果が出たならば必ず勝利に貢献する何かをしていたはずだという発想に容易になってしまう。
実際にはいい結果が出た時にも、間違えたこともやっているわけで、あくまで程度の問題でしかない。
また原因はだいたい複雑で、何か一つが勝利の理由だったということもあまりない。
負けた時は反省もしているので、この要因分析をもう少し丁寧にしつこくやるが、
結果が出た時には心が浮かれていて曖昧に終わらせてしまう。
結果を出した人が言っているのだからそうに違いない、と周囲も誰も突っ込まないので、曖昧な要因分析が認められやすい。
こうして、結果と関係のないものが成功の理由だったと誤学習してしまう。
また相手チームは負けたわけだから、必死に敗因を分析する。
勝利したチームと敗北したチームでは分析への執着心が違う。
分析の精度は疑いの強さによって変わる。
勝利したチームは勝ってしまっていて疑いを持つことが難しく、結果分析の精度が悪くなる。
成功体験は、この分析への執着心をパーティーの喧騒の中で濁してしまう。
こうして、勝利したチームは次回以降誤学習した成功の要因を信じ込んでそこから戦略を立てるようになる。
2、変われなくなる
成功体験はとても強いので、成功するまでに取り組んだこと、その時にやっていたことが自分にしっかりと焼き付けられる。
これはもう、ほとんど自分でも抵抗し難いぐらいの強さで刷り込まれる。
もちろん勝利した時のやり方がある程度有効だったからこそ勝利したという可能性はあるが、
しかしライバルも、それから自分も、さらには環境も、全ては常に移ろいゆく。
何かが変われば、あの時に通用した成功パターンはいつしか通用しなくなり、新しいやり方への変更を迫られる。
また相手チームもこちらを分析してくるので、それによっても有効な戦い方は常に変化する。
つまり変わり続けるしか勝ち続ける方法はないのだが、成功体験は自ら変わるということに強い制限をかけてしまう。
なぜならば、あのやり方であの時うまくいった、という記憶を持ってしまっているからだ。
私自身、一度メダルを取ってスランプになった後、自分は新しい自分に変わらなければならないといつも思っていた。
けれども、少しでもうまくいかなくなるとまた前のやり方に戻ろうとしてしまった。
古い手法は少なくとも慣れているし予想がつく。
新しい手法は予想がつかないのでどうなるかわからない。
人間は予想がつくものを好む傾向があり、
特に過去に成功体験を持った人間は、なまじこうすればうまくいくという記憶を持ってしまっているが故に、
古びていても「あの時のあのやり方」に固執する。
変われないことは例外なく衰退を招く。
成功体験は「変わらないでも戦える」という間違った学習を集団に植えつけてしまう。
3、世間に賞賛される味を覚える
世間は成功を褒め称える。
世間なんて、と思っていても、褒められれば悪い気はしない。
私のような性格であれば、余計に嬉しくなってしまう。
この世間の賞賛は強い報酬になるから、
一度成功してこれを記憶してしまうと、世間の賞賛を求めるようになる。
また真面目な選手であれば世間が期待することに応えようとするようになる。
ところが、世間というのは、情報量が溢れていることもあり、どうしても表面的なものにしか反応しない上に、慣れるという特性がある。
選手が同じ成果を出し続けても(それがいかに大変なことでも)次第に世間はそれに慣れていき、反応しなくなっていく。
もっと、もっと、と求めていくうちに、
次第に自分らしいやり方との乖離が生まれていく。
スポーツにおいては、世間が「民主的」に出した答えよりも、選手一人の過去の経験からくる直感の方が当たることが多い。
成功する前は比較する対象もなく、自分のやり方を貫くことができるが、
一度成功してからは、常に世間の期待が耳に入ってくるので、周囲の期待や賞賛を無視して自分のやるべきことに集中できるような能力が必要とされるようになる。
成功体験を何度も繰り返した選手は、世間が盛り上がっても自分だけ冷めておくことができるが、初めて味わう喧騒には多くの選手が巻き込まれてしまう。
そして、その時覚えた世間の賞賛の味が忘れられなくなり、
自分の競技をしているようで、実は世間に振り回されながら漂っているだけのような選手も多くいる。
成功体験はただの記憶に過ぎない。
ただ、この記憶は強烈な慢心を自らに刻み込んでしまう。
全くの余談かつ、競技の世界の論理を当てはめていいのかわからないが、
私には、この国は「集団的成功体験」の呪縛から長らく逃れられていないように見えている。』
(以上 一部加筆修正)
有名アスリートとして世間に注目されながら、常に試行錯誤を重ね研鑽を積んでこられた為末氏ならではの、鋭く、かつ、実感のこもった分析だと思います。
スポーツやビジネス、また子育てなどの教訓として、
「成功体験を持つことが大切」とか、
「勝ちグセをつけよ」
というようなこともよく言われますが、
それによってかえって慢心し、勘違いしたまま進んでしまったり、
「あの時は出来たのに」といわゆるスランプに悩んだり、
というようなこともよくあるのではないかと思います。
乗馬で言えば、
うまくいかない時にはその原因や修正方法を色々と指導されても、
上手くいった時には「結果オーライ」であまり考えないということも多いでしょうし、
あるいは、ある方法が、その時はたまたま他の条件との組み合わせによって上手くハマっただけかもしれないのにも関わらず、
「これでいいんだ」と単純に思い込んでしまう、というようなことはしばしばあるのではないでしょうか。
うまくいかないと、「前は出来たのに」とか、「最近スランプで」というようなことを仰る方もよくいらっしゃるのですが、
「良かった時」に戻ろうとしても、本人や馬の身心の状態から周囲の環境まで全く同じ条件というのはそうそうあり得ず、「同じ馬には二度と乗れない」わけですし、
「スランプ」というのは、自分は出来るようになった、という思い込みからくるものであり、
常に自らの技術を疑い、探求を続けていれば、陥ることはないものなのだろうと思います。
また、馬の世界には、騎乗や調教の技術だけでなく、
飼養管理や施設営繕、あるいは顧客管理やマーケティング手法に至るまで、様々な業務に関する知識やノウハウというものがありますが、
それらの内容は組織や個人によって微妙に異なり、それぞれその場独自のやり方にこだわっていたりするものですが、
そうしたものの根拠というのは実は、
やってみた
↓
うまくいった(悪いことが起こった)
↓
これでいいんだ(もうやらない)
というような、単純な「経験則」に基づいていることも少なくないのだろうと思います。
実際には、そうした経験則の元になった事象の原因というのは一つではなく、実は様々な複合的な要因の重なりによるものであって、
単純に「こうしたからこうなった」とは言い切れず、
他にも方法が考えられることも多いわけですが、
そうしたことを無視した安直な因果関係分析による思い込みによって作られた様々なルールが、
「競技で結果を出している人が言ってるのだから正しいのだろう」といった体育会系的慣習と閉鎖的な環境の中で、長年に亘って堆積、硬直化していくことが、
不可解なルールや指導方法によって外部から来た人が戸惑ったり、軋轢を生むようなことの理由の一つになっているようにも思います。
こうした「変われない」性向は、長く同じジャンルの競技種目だけを続けてきたという自負のある人やクラブなどではより顕著にみられる傾向があるように思います。
うちはコレで結果を出しているから、
俺はこの世界で何十年やってるから、
と言っても、それは実は世界の馬文化や歴史の中で見ればごく一部の限られた狭い世界における、一個人やクラブの経験の中での話であって、
必ずしも普遍的なものではないかもしれないわけですから、
話を聞く時もそういうつもりで、あまり盲信せず、自ら広い視野を持って、
私のような第三者の意見や他ジャンルの理論なども参考にしつつ、
常に「変わる」ことを恐れずに進化を求めて探求していくような気持ちでいれば、
より乗馬を深く、長く楽しんで頂けるのではないかと思います。
(^^)