とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石の『草枕』を読む。7

2024-04-24 17:29:32 | 夏目漱石
第七章

印象に残る風呂場の場面である。

画工は風呂に入る。

余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。

前章の漠然とした恍惚感を風呂の中で味わっているようにも見える。湯気が漂う中、湯に体を浮かせれば、体も心も宙に浮いたような感覚になるのであろう。画工はここでもミレーのオフェリアが頭に浮かぶ。そういえば、画工が茶店の婆さんに那美のことを初めて聞いた時に頭に浮かんだのも、オフェリアだった。やはり那美はオフェリアを想像させ、画工に「私に同化しなさい」と迫って来るのである。

案の定、那美が風呂に入って来る。那美が入ってきたのは偶然かもしれない。しかし画工にとっても、読者にとっても必然であろう。

しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。

画工が部屋で考えていた恍惚とした情景がそこに出現したのである。那美はあきらかにこの出来事を楽しんでいる。恥ずかしさとは無縁な態度で消えていくのだ。那美の態度は画工に対して「私に同化しなさい」と言っているように感じられる。エロチックであり、恍惚感が極まる。
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夏目漱石の『草枕』を読む。6

2024-04-22 17:05:40 | 夏目漱石
第六章

画工は宿に戻る。宿の人はどこかへ行ってしまったのか静かである。芸術について考える。
 
ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。

画家や詩人が表現したいものとは、自分の心を奪った物である。それを表現するためにはその物に同化する必要がある。しかし自分の心を奪っているものが明確でない場合がある。

余は明かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。

画工は漂っている。漠然とした恍惚感とでも言うしかない。何にも同化できない。このような境地をどのように表現すべきか、画工は考える。そして、「こんな嘲笑的な興趣を画にしようとするのが抑もの間違」だと考え、他の表現手段を考えるが、うまく行かない。

そうこうしているところへ現れるのは、やはり那美である。部屋の入口が開いている。そこに振袖姿の女が寂然として歩いているのである。何の目的なのかもわからない。ただ行ったり来たりしている。振り袖姿は華やかでありつつ、景色のなかに溶け込み、「有と無の間に逍遥している」ように感じられる。次第に雨が降り出し、女は雨の景色の中に消えていくように感じられる。雨に同化していき、自身が風景になるのだ。おふろで湯船に浮かぶように、今雨の中に漂っている。

この場面、那美はいったい何をしていたのであろう。画工の考えていることを受けて画工のために自分が恍惚とした情景を創り出そうとしているのである。画工も、わざとらしさを言及することもなく、それを素直に受け入れているようである。画工の思い通りの行動を那美がしているのである。
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山形市霞城公園の桜です

2024-04-19 09:53:00 | 日記
山形市の桜の名所、霞城公園の桜です。

お堀に映る桜が夜ライトアップされるととても風情があります。

ただしお堀沿いに線路はあるのですが、道がありません。だから歩きながら見ることはできないのです。しかし電車に乗ると見ることができます。ライトアップしている時間は電車もスピードを落としてくれます。








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フロリアン・ゼレール作『La Mère 母』を見ました。

2024-04-16 17:37:34 | 演劇
東京芸術劇場シアターイーストでフロリアン・ゼレール作『La Mère 母』を見ました。現実と幻想の狭間の人間を描く、緊張感あるすばらしい舞台でした。

家族のために人生をささげてきた母。しかし大切に育てた息子は自分で暮し始め、彼女もでき次第に母から離れていきます。愛情過多の母が次第に鬱陶しく感じてもいるようです。夫にも愛人がいるようです。夫の嘘が心を突っつくように感じます。母は自分が生きがいとしていた家族に去られ、いつしか精神を病み幻想を見始めます。演劇はその幻想と現実の狭間を描き、事実がどこにあるのかがわかりません。観客は追い詰められていく母の姿を見詰めることによって、家族という不思議な存在を考えざるを得ません。非常に悲しく残酷な演劇です。

主演は若村麻由美。愛情過多であり、孤独を怖れる女性を見事に演じています。父親役の岡本健一もやり過ぎない演技で舞台を引き締め、若村麻由美との距離感を見事に作り出しています。息子役の岡本圭人も微妙な心理をうまく演じています。

引き締まった舞台であり、なおかつ心の迷宮に迷い込む感覚になります。名舞台です。
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NTL『ディア・イングランド』を見ました。

2024-04-15 17:45:51 | 映画
NTLというのは、イギリスの国立劇場ロイヤル・ナショナル・シアターが厳選した名舞台を映像化して映画館のスクリーンで上映する「ナショナル・シアター・ライブ」のことです。毎年数本が上映されます。その最新作『ディア・イングランド』を見ました。サッカーを題材にしているので、試合の場面など処理をどうするのか心配だったのですが、見事に処理され、逆に演出の手際のよさが目立つ作品に仕上がっていました。映画ファンも、演劇ファンも必見です。

サッカーの実在のイングランドチームを描くドキュメンタリー的な要素ももつ作品です。長い間低迷していたイングランドチームに、ガレス・サウスゲートが代表監督に就任します。サウスゲートはかつてイングランド代表チームの選手でした。彼はワールドカップでPKを外し、戦犯のような存在となっていました。サウスゲートは、代表チームを大きく改革します。中でも大きな改革は選手の心理面を重視し、カウンセリングを導入します。順調に成績を上げていきますが、やはりすべてがうまくいくわけではありません。時には内部の衝突もあります。しかし進むしかない。成功と失敗を繰り返しながらイングランドチームは進んでいきます。

現在でもサウスゲートは代表監督ですし、ここに出ている選手も多くがまだ現役代表のようです。ですからイングランド代表の応援演劇ともなっているのです。しかしそれだけではありません。特に描かれるのはPKです。決めて当たり前のPKを外してしまうシーンが数多く出てきます。人間の心の弱さと、それを克服しようと努力する精神力のぶつかり合いが心を打ちます。

エンターテイメント要素の強い演劇ですが、しかし深い作品です。
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