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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(3)

2020年02月19日 | 読書ノート

 ではバルザックの『ウジェニー・グランデ』と、ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を比べて読んでみよう。二つの小説のあらすじから紹介していくことにする。『ウジェニー・グランデ』は守銭奴の父グランデ氏の圧政の下にある従順な娘ウジェニーが、破産して自殺したグランデ氏の弟の息子シャルルと相思相愛の仲となるが、お金のことしか考えない父親に対して次第に自立した女性として成長していく物語ということになろうか。

 一方『ワシントン・スクエア』は、人間として完璧な父親スローパー博士への敬愛と、彼女に結婚を申し込んだモリス・タウンゼントへの愛とのはざまで苦しみながら、自立していくキャサリンの物語ということになる。『ウジェニー・グランデ』との違いはグランデ氏がお金のためならどんな汚いことでもやり、自分の吝嗇を家族に対しても強制するひどい男であるのに対して、『ワシントン・スクエア』のスローパー博士は、世間的にも、家族に対しても完全無欠な人物であるところにある。

 また、ウジェニーが極め付きの美人であるのに対して、キャサリンは大柄で十人並みの器量の持ち主(デブでぶすということ)、頭の方もそれほどよくはないという違いもある。バルザックは悲恋の物語として美人を主人公にしなければならなかったのに対して、ジェイムズの主人公は悲恋の物語のそれらしくないという違いもある。

 ウジェニーとシャルルの結婚を妨げるのは、必ずしも父グランデ氏の金銭欲というわけではない。グランデ氏はシャルルが金持ちならば喜んで娘の結婚を承諾したであろうが、お金のために娘を政略結婚の犠牲としたわけでもない。二人の結婚の障害となったのはシャルルの変節であり、父親に直接の罪はない。

 一方、キャサリンとモリスの結婚を妨げるのは、父スローパー博士の断固たる反対の意志である。では彼がひどい父親なのかといえば、そうではなく、モリスが財産目当てで結婚しようとする怠け者であることを見抜いているが故に、彼は反対するのである。スローパー博士の意志に読者は抵抗できない。それがあまりにも理にかなっているからである。それどころか読者は父親に成り代わって、キャサリンの結婚に反対する気持ちにさえなるだろう。スローパー博士の罪は別のところにあるのだが、そのことについては後ほどのテーマとしたい。

『ウジェニー・グランデ』でウジェニーの周りには、母親と女中のナノンがいて、グランデ氏の暴政に対し共同戦線をはって抵抗するが、『ワシントン・スクエア』のキャサリンは孤立無援である。母親は早くに亡くなっているし、モリスに肩入れする叔母のペニマン夫人は、その軽薄さ故にキャサリンの援軍たり得ない。だいたい読者を味方に付けることもできないのだから。

 ウジェニーは母の死、父の死によって莫大な財産を相続することになるが、もとよりそんなものに興味はない。結婚にも絶望しているが、以前から彼女を狙っていたボンフォン裁判所長と形式だけの結婚をする。夫の死後、ウジェニーは財産を慈善事業に費やして、ひとり寂しく老いていくのである。

 キャサリンもまたモリスに失望して結婚を断念し、父に対する面当てのように生涯結婚しようとせず、ひとり寂しく老いていくのである。以上ストーリーにおいても違いは数々あるにしても大枠はよく似ている。バルザックを大好きだったヘンリー・ジェイムズが『ウジェニー・グランデ』の現代版として『ワシントン・スクエア』を書いたということは、疑い得ない。

 まず導入部からして『ワシントン・スクエア』はバルザック的である。書き出しは次のようなものである。

「十九世紀前半、さらに詳しく言えばその後半のことである。ニューヨークの街に一人の隆盛をきわめた開業医がいて、名医というものがふつう受ける以上の、大きな敬意を集めていた。アメリカでは医者は立派な職業として尊重され、紳士階級だと自称する正当性を他のどこよりも獲得している。」

 まずここで時代設定を見てみると、十九世紀前半の後半というから1825~1850年あたりを想定していることが分かる。ヘンリー・ジェイムズは1843年に生まれ、1916年に没しているから、同時代ではなく、彼の生まれる直前の時代に設定しているのである。その時代はバルザックがもっとも精力的に小説を書いていた時代で、『ウジェニー・グランデ』もその時代に入るし、『絶対の探求』『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』などの名作はこの時代に書かれている。つまり時代設定からしてバルザックを意識していることに間違いないのである。

 ところで、主人公の父スローパー博士の紹介が先の引用のように始まるのであるが、彼の築いた世間的人望と絶世の美人との結婚、最初の男の子の早すぎる死とキャサリンの誕生による母親の死、キャサリンの成長と彼女への失望、というふうに続いていく。この様な整然とした背景説明による導入部は、ヘンリー・ジェイムズの他の作品には見られないもので、ここでも彼はバルザックに倣おうとしているように見える。バルザックの導入部に比べたらはるかに短いものでしかないが、こんなことを普段のジェイムズはやらないのである。

 



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