今日のテーマは「塩」
古代史に関してよくある疑問の一つに
「縄文時代、海がない長野などは塩ってどうしてたんですか?」
というのがあります(^^)
現代と同じく古代も塩は生活必需品だったと思われます。特に食料の保存や味付けなどには欠かせません。私たちの体の成分にもなくてはならないものですし♪
私も塩について考えたことがありましたが
岩塩などを採取していたのかな〜
なんて漠然と思っていてきちんと確認したことがなかったので、先日の古代史勉強会後のお茶会の際にメンバーさんに話を振ってみたところ、お一人詳しい方がいらっしゃいました。
今日はその方から聞いたお話を自分でさらに調べた内容をご紹介したいと思います。
メンバーさんのお話では、古代より塩を運ぶ
『塩の道』
なるものがあったとのこと。
調べてみますと、特に有名なのは
「千国街道」
と呼ばれる道で、新潟県糸魚川から長野県松本市までの約130㎞の旧道です。
(現在は国道147・148号線、鉄道ではJR大糸線がその役目を引き継いでいます)
この千国街道の歴史は、なんと無土器時代にまで遡ると言われています。
そういわれてみれば。。。
古事記の国譲り神話で、大国主命と奴奈川姫(糸魚川)の子である建御名方命(諏訪大社のご祭神)が武甕槌神に敗れ、出雲から長野の諏訪へ逃げたという話。
もしやと思い調べてみましたら、やはり逃げる際にこの千国街道(姫川)を通ったと考えられているようですね。
このことから、その頃にはすでに新潟と諏訪が結ばれていたといえます。
塩の道は岩塩のない(そうなのね)日本において、海でとれた塩を内陸に運ぶための道で、海岸から内陸に向かって無数の塩の道があったのだとか。
近世においては
海からは塩や魚
山からは麻・大豆・生薬など
の流通路として使われました。
太平洋側から入る塩のことを信州では
上塩・南塩
といい、豊橋・名古屋・江戸から運ばれました。
日本海側から入る塩のことは
下塩・北塩
といい、富山・糸魚川・直江津・新潟から運ばれました。
そして上塩と下塩の移入路のターミナルには
「塩尻」
という地名がつけられたといわれ、塩尻市をはじめ上田市塩尻や下水内郡栄村など各地にその名が残されています。
その中でも千国街道は最も代表的なルートであり、さらにそれを有名にしたのが
川中島の合戦
上杉謙信が敵の武田信玄に塩を送った
→敵に塩を送る
のお話の舞台でもあるんですね
さらに新潟と長野の交流の証として
長野県和田峠で採掘された黒曜石が日本海側の遺跡で発見されたり、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれるヒスイと、そのヒスイを加工する工房跡が長野県で発見されていることからも、千国街道を通じて物資が流通していたことが伺えます。
かつての庶民の重要ルートも現在はハイキングコースとなり、別の意味で人々を楽しませています(^^)
古代史勉強会後のお茶会では、塩の道の他にも
「鹿ってよく岩を舐めるけど塩分補給なのかな(←やはり岩塩疑惑)」
「塩気の強い植物もあるんだよね」
など、みんなで古代の人々の塩分摂取法に思いを馳せたのでした
☆11月17日(土)はゆだぽん主催イベント
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