歴史作家「関裕二」先生の新潮講座でした!
奈良飛鳥ツアーから帰ってきて一週間も経たないうちに、関先生や新潮社の方々・ツアーでご一緒した方々と、また講座でお目にかかれるとは嬉しいです
今回のテーマは
『天皇と三大豪族〜物部氏と天皇〜』
聖徳太子や蘇我氏に討ち取られた「物部守屋」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
少し古代史に明るい方なら物部氏の祖である「饒速日(ニギハヤヒ)」かな⁇
古代史を学ぶ前は、私も物部守屋のイメージが強かったです。山岸涼子さんの「日出処の天子」を熟読していたので、何となく悪役のイメージが今思えば全くの先入観でしたが(^^;;
そして
物部氏=神道
ここからは関先生からいただいた資料を元に記事を書かせていただきますね(^^)
上記の物部守屋滅亡のいきさつですが
用明天皇が「三宝(仏法僧)に帰依したい」と願ったところ、物部守屋は「国神にそむくことになります」と猛反対。
用明天皇が崩御されると、同じ年に蘇我馬子は皇族や群臣に物部守屋討伐戦を勧め、その結果、渋河の家(八尾市北西部・東大阪市南西部の一帯)で物部守屋は滅亡しました。
この戦に
聖徳太子も参戦している
ところに意味があるのですよね。。。
そのヒントがこちら↓
時代を少し遡りますが
第十代崇神天皇の母は物部系の女性です。
崇神天皇は実在の初代王と目されている天皇です。
神武天皇東征の折、ヤマトには物部氏の祖である饒速日(ニギハヤヒ)命が、先住の長髄彦の妹を娶り君臨していました。
神武天皇がヤマトに迫ると、ニギハヤヒは長髄彦を殺して恭順します。
武力では神武天皇を圧倒していたヤマトのニギハヤヒが、なぜ長髄彦を裏切って神武天皇を迎え入れたのでしょう⁇
関先生曰く、ここにヤマト建国のすべての秘密が隠されていると…
さらにここから「ヤマトタケル」も登場し、意外な展開に驚きとナルホド感♬
ところで「ヤマト」という国名はニギハヤヒが名付けたのだそうです。そしで生駒山は別名をニギハヤヒ山というのだそうですね。
ニギハヤヒ…きっと何か大きな鍵を握っているのでしょうね。
ヤマトタケル(謎)のお話などとても入りやすかったです。こちらの本、関東の氏族や神社を中心に書かれていてかなりオススメです✨他の古代史の勉強会でも、古代の関東についての質問が多く、そういう意味でもなかなかない内容と思います(^^)
講座終了後はみんなでお決まりの神楽坂ランチ
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