卵巣がん・乳がん手術前夜~集中治療室での夢~退院まで 回想⑥


気を送ってくれた友人たち

回想を何回かに分けて書いてきましたが、振り返ってみると、手術、入院中のことを書いていなかったなあと思い、振り返ってみたいと思います。何年経とうが、あの時の様子は鮮明に覚えているし、これからも焼き付いていることでしょう。

いよいよ手術を次の日に迎えた日。

私のお腹は、歩いていて明らかに違和感を感じるほどに膨らんで、時々内側から膨れた箇所が神経に触り、痛い!ということも。

早くこの異物感を取り除いて欲しい、腹水を取って欲しい・・・そんな気持ちが強かったので、待ち望んだ手術でした。

それでも、前の晩になると不安がよぎり・・・手術を受けたことがある人なら分かると思うのですが、「手術同意書」「輸血同意書」などは、万一のことがあっても了承します、という内容のものなので嫌でも同意しないとものごとがすすみません。

良く読むと気がめいるような内容もあります。私は卵巣がんの他に乳がんの手術も同時に行うために、万一術中に全摘が望ましいと判断したら、全摘することに同意します、というものもありました。

ほんの数人の友だちにしか伝えていなかったので、誰かと話したくても説明する元気もなく・・ 夜中に信頼する人二人にメールしました。「実は・・・手術します。応援してください。」

朝起きると、「今から′気’を送るからしっかり受け止めて」というメールが届き、よしっ!と気を引き締めたのを覚えています。よく、「頑張って」と病人にむやみに言わない方が良い、という議論がありますが、この友人の言葉は「頑張って」というものではなく、力をもらいました。

その日、実家の両親に送られて、9時スタートくらいでいよいよ手術室に向かいました。

映画やドラマの世界では、目が覚めると手を握ってくれる家族がいるけれど・・・

映画などを見ていると、手術が終わった人のベッドの両脇に家族、配偶者、子ども達などがいて、目が覚めると皆喜んで手を握ってくれる・・・そんな光景があります。

全身麻酔から醒めてきた時、両親と夫の話声が聞こえました。そして、「寒い・・・!」

まだ話せないのですが、心の中では「ねえねえ、寒いんだけど。どうして誰も手を握ってくれたり、さすってくれたりしない訳??」と思っていました。(笑)

そして、やっと声が出た時に最初に言ったのは、

「私の胸、残ってる?」

卵巣がんの手術の方が大変だったというのに、やはり女性にとって胸の全摘は悲しいもの。まずはそれが気になりました。

幸い、乳がんからのリンパ転移は見られず、他にも広がっておらず、全摘せずに済んだようでまずはホッとしました。

お医者様の連携に本当に感謝

目が覚めた時、時間はすでに夕方は6時くらいだったでしょうか。手術時間は全部で8時間くらいかかったとのこと。

最初は主治医の婦人科の先生とアシスタントの先生が卵巣がんの手術をしてくださったのですが、その時に見つかったのは、ガンで膨れ上がった卵巣だけではなく、大腸の裏や脾臓に貼りついたガンが発見されたのです。

そこで、胃腸外科の先生が来てくださって処置をしてくれたとのこと。脾臓はなくなってもあまり影響のない臓器なので、不幸中の幸いでした。かくして、卵巣子宮全摘出以外に、脾臓摘出となりました。

お腹を閉じた後には、乳がんの手術です。こちらは、早期だったため、がん部分を摘出し、リンパ転移がないことを確認して終了しました。(すべて主治医から後で聞いたことですが)

予測しなかった事態にすぐに対応してくれた、おそらくがん専門病院だからこその素早い連携に本当に感謝しています。

現れた悪夢 - 集中治療室

術後、1日~2日は集中治療室だったでしょうか。

ここでお世話になった経験豊富そうなナースの皆さんにも感激しました。全身麻酔後で身体がまったく動かせない、酸素マスクをつけた、脱力して重い私の身体を温かいタオルで拭いてくれて、着替えをさせてくれて・・  静脈が細くて採血しにくい、点滴の針も射しにくい私の腕と格闘してくれたり。

集中治療室で過ごした夜、2回、とても嫌な夢を見ました。

一つは、どこかに行かなくてはならず、「何階に行けばいいですか?」と誰かに聞くと、「27階ですよ」と。 とても狭いエレベーターに乗り込んでドアが閉まり・・さて、27階を押さなければ、と思ったら27階なんてない! 

そう思っているうちにエレベーターはどんどん上昇を続け、止まりませんでした。

「そんなの嫌だ!!!」

そう声に出して叫んで目が覚めました。

自分が別の世界に連れ去られそうになった瞬間のようで、目が覚めて心底ホッとしたのを覚えています。

もう一つの夢はちょっとここでは書けません。。。苦笑

しかしながら、それも自分の命が脅かされる夢でした。やはり、がんという病気をある程度撃退したものの、まだまだリスクはある、と言われているようで後味が悪かったです。

お味噌汁の上澄みがこんなに美味しいなんて

術後、約10日間ほどは水も飲めなかったと記憶しています。ずっと点滴と一緒に歩いていました。

歩けるようになってからは、病棟をひたすら歩くようにしていました。今日は3周、次は5周、というように。そして最後には20周くらいしていました。歩いていると、看護師さん達に褒められるのが嬉しいのもあったかもしれません。

でもその歩行訓練が、特にお腹回りの筋肉の回復にとても良かったと思います。

そして、いよいよやっと食事が始まった時、与えられたのは、うすーーーーいおかゆの汁と、お味噌汁の上澄み。 これが、なんとも言えず美味しかったのです。

味があるものをいただくって、本当に美味しい。食べ物への感謝を改めて感じた瞬間です。

それから約1年くらいは、濃い味、塩味への感性が敏感になり、おのずと薄味、素材そのものの味を楽しむようになりました。(今の食生活はちょっと反省・・・・)

「手当て」が心の治癒を促す

友人にも病気をちゃんと伝えていなかったので、お見舞いもほとんどなく、夫との関係があまり良くなかった私にとって、一番の癒しと言えば主治医や看護師さん達が声をかけてくれることでした。

そして、なんでもないこと、お腹のテープを貼りかえたりするために身体に触れられることが一番の癒しだと感じたのです。

人の手のぬくもりが肌に触れる事、これが人間にとっての一番の癒しでは?今でもそう思います。

私の3週間の入院生活は、実家の両親や弟が入れ替わり立ち代わり来てくれて、洗濯物などの面倒を診てくれたこと、数人の友人が様子を見にきてくれたこと、そして自分も少しずつ生気を取り戻し、積極的に歩いたことなどから、前向きな気持ちで過ごせました。 

院内のコンサートにも、とても癒されました。「翼をください」で泣きそうになったけど。

主治医の術後説明とがんの写真

体調が落ち着いてきたころ、主治医の術後説明を受けました。卵巣がん、脾臓、乳がんの切断面などを撮った写真を見ますか?と言われたので、勇気を持って「はい、見せてください」と。

気持ちを強く持っているつもりの私ですが、このときばかりは息が止まるような感覚と、まさに背筋に電気が走ったような感じがしました。それほどショッキングな写真だったのです。

「こんな醜いものが私の身体の中を巣食っていたなんて・・・」

その次に、先生は「ご家族から聞いていると思いますが」と前置きをして、

「良かったですね、リンパ転移はありませんでしたよ」

涙が出るほど嬉しかったです。 だけど、ちょっと待って、、、家族から聞いているはず?

母と弟に聞くと、夫から聞いていると思った、と言うではありませんか。どうして、こんな大事な事を言ってくれないんだろう?

写真の衝撃を一人で受け止めきれず、母と弟に「見てもらってもいい?」と聞くと「もちろん」と言ってくれたので、一緒に見てもらいました。

退院 ~ 帰宅して離婚を決意した

病気になる前も、もう何かが上手く回っていない感じがしていたし、義理の両親との間もなにかしっくりいかない、せっかく建てた二世帯住宅さえも、終の棲家のように感じない。

私の直感が、違う、と叫び出していたものの、それが何なのか、はっきりとしませんでした。

3週間ほどを病院で過ごした後、単身赴任中の夫はその日もおらず、義理の両親の車で帰宅しました。

久しぶりの寝室に入って、最初に目に入ったものは・・・・絨毯の上にひらりと落ちていた私の術後説明書。

このとき、私は離婚を決意したのです。

人の心の痛みが分からない人と、これ以上一緒にはいられない。