坂本龍馬の歌 南原宏冶 | 加納有輝彦

坂本龍馬の歌 南原宏冶

8月15日に想う

小生はしばしば南原宏冶さんの事を書いてまいりました。
この日になるとやはり、再び、思いがこみ上げます。

 南原さんは終戦時の昭和20年、18歳、多感な年齢である。

 時は流れ、大川隆法総裁が、稀代の「霊能力」を発揮され、霊言を最初に世に問われたのが、40年後の昭和60年(1985)、奇しくも初版(第1刷)は8月15日発行、『日蓮聖人の霊言』(編著者、善川三朗)であった。
 私の手元にあるのは、初版ではなく第二刷、昭和61年5月25日発行のものである。初版本は、相当にプレミアムがついているらしい。(笑)

 南原さんは、その後『坂本龍馬の霊言』をお読みになり、感激、入信されたという。

爾来、南原さんは、英霊の声を聴きたくて、その思い最も強くして、しかし時満ちず、大川隆法総裁が、本格的に英霊の霊言を世に問うことになったのは、南原さんが帰天後であった。

 南原さん、この世にて英霊の声くこと能わず。

代わりにいわゆる「戦争を知らない子供たち」である私たちにその重責は託された。

 生涯、坂本龍馬を愛した南原さん。

坂本龍馬にまつわる忘れられない想い出がある。

 それは、まさしく「坂本龍馬の霊言講義」が今はなき西荻窪の道場で開催された日であった。(平成元年1989.2.22)

 確か、開会の挨拶を南原さんがおやりになったと記憶している。

 その時の、内容はテープ収録され、今でも残っている。

講義が始まり、坂本龍馬が大川総裁先生に入り、突然、南原宏冶さん個人に向かって語り始めた。脈略なく突然という感じで。
 テープを聴けば、正確に再現できますが、記憶を紐解くと

「南原くん、君は(狂うのが)遅すぎた。坂本龍馬を(演劇で)やっとる頃(もっと若い頃に)に狂うべきだった。その年(還暦)では、世間から生活に困って狂ったとしか思われん。
 南原くん、もう君は死ぬだけか。
 もう、子作りはいい!!!
ええかげんにせい!!!・・・・」

 突然、南原さん個人に向けて龍馬から「檄」が飛んだのだ。

あるいは、その時、参加しておられた方もおられると思う。

 驚いたのは、講義が終わってからの事。

 南原さんを囲んで私も含め数人の者がこれを聞いた。

南原さん、曰く。

「いや~、まいった。
実は、昨夜、カミさんと、もう一人子供・・授かりたいな・・・と話していたんだ。・・・まいった。」

 夫婦の会話という最もプライベートな会話を龍馬さんが聞いていたことになる。(笑)

 この時ほど、霊の存在を驚きを持って身近に感じたことはない。(笑)

 関係者の方もご存命なのだが、時効という事でお許し頂きたい。
 「10年で龍馬を乗り越えよ!」という檄により、南原さんは、その後、まさしく10年余にわたり、血のしょんべんをしながら(本人談)獅子奮迅の活躍をされた。

 平成2年(1990)、小生の結婚式に来て下さり「絶対に歌わない南原宏冶で有名であったという」南原さんが歌を披露して下さった。

 これは、あるいは、唯一無二の歌う南原さんの動画かもしれない。(笑)
 それよりも何よりも、困難を極める政治活動の中にあって、我々に勇気を与えてくれる歌唱でもある。

 そんなわけで、皆様と共有したい。

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坂本龍馬の歌

歩けるようになるために
人は幾度も幾度も躓かなければならない
どんなに叩かれても
どんなに突き放されても
どんなに蔑まされても
それでも世界には
励ましてくれる方がある
見守ってくれる方がある
だから人はもう一度
出会いに向かって
手を合わすことができる
もう一度
立ちあがり
歩むことができる
もう一度
立ちあがり
歩むことができる



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