【三韓征伐】に挑む神功皇后絵図

 

上の話は【神功皇后の三韓征伐】として知られるが、実際は新羅を征伐しただけである。

高句麗は征伐するどころか倭国軍は後に好太王により朝鮮半島から追い出されている。

だが百済は向こうから貢献してきたようで、石上神社に納められる七支刀も戴いている。

百済には倭国も相当な便宜を図っているから、これはまあ当然の行為といえよう。

 

【神功皇后紀】の記す百済肖古王が倭国に贈ったとされる七支刀(天理市石上神社に奉納される)


ところで新羅が金銀財宝に溢れる国という理由だけで倭国が征伐に行くはずはない。

もし本当にそうなら、倭国は隣国を攻めて財宝を強奪する盗賊国だと云うことになる。

だいたい財宝の話は『記・紀』の言い訳であり、実際は何か別の目的があったはずだ。
その目的とは【応神天皇紀】の記す弓月君(ゆづきのきみ)来倭の話から推察される。


【応神天皇紀】十四年春二月の条によると名称不詳の百済王が、

大和朝廷に衣縫い(きぬぬい)の工女真毛津(マケツ)らを貢いだとあるが、

この百済王は二年後の応神天皇十六年に崩じたとされる第17代阿花王のはずである。

阿花王と思われる百済王はまた阿直岐(アチキ)と共に良馬二頭倭国に貢いでいる。

 

次に応神天皇?荒田別(アラタワケ)・巫別(カムナキワケ)を百済に派遣し、

書首(フミノオビト)らの始祖である王仁(ワニ)を呼び寄せた話などが記されるが、

『古事記』【応神天皇】条では、百済照古(ショウコ)が牡馬と牝馬を一頭ずつ、

阿直史(アチキノフビト)らの祖の阿知吉師(アチキシ)に付けて貢いだとされており、

更に照古王横刀七支刀のことか?)大鏡倭国に献上したと記されている。

また応神天皇?の要望に従い、照古王の命によって論語十巻・千字文一巻、

并せて十一巻和邇吉師(ワニキシ)に付けて、倭国に貢いだとも記される。

 

照古『日本書紀』【神功皇后紀】の記す百済第13代(近)肖古と考えられ、

阿知吉師(アチキシ)は【応神天皇紀】阿花王が貢献したはずの阿直岐(アチキ)、

和邇吉師(ワニキシ)は荒田別巫別が呼び寄せた王仁(ワニ)に相当するだろう。

その結果、当時真毛津らによって倭国には養蚕や生糸造りと機織りが伝えられ、

阿直岐王仁によって文字(千字文)『論語』が伝えられたことになっている。

 

だが『魏志倭人伝』を見ると、卑弥呼時代既に倭国と文書を取り交わしており、

絹を生産していたと記され、『記・紀』にも天照大神が機織りをする場面があるので、

どうやらこれらの技術は遥か昔の弥生時代初頭にはもう倭国に伝わっていたらしい。

どうもそれは徐福童男童女三千人百工を連れて来倭したときに違いない。

但し、「馬は無し」『魏志倭人伝』に記されるので、この時伝わった可能性が高い。

 

因みに【神功皇后紀】四十九年条には、荒田別鹿我別(カガワケ)を将軍となし、

百済官の久氐(クテイ)らと共に海を越えて卓淳国に遣わし、新羅を襲ったとある。

この記載で常に荒田別(アラタワケ)と組んで行動をとる鹿我別(カガワケ)とは、

【応神天皇紀】荒田別と組んでいた巫別(カムナキワケ)と同一人物と思われる。

 

このように『古事記』『日本書紀』では神功皇后応神天皇の事績が交錯している。

どうやら『記・紀』は隠蔽・改竄のし過ぎで矛盾が起きてきたのを隠しきれなくなったようだ。

 

以下『日本書紀』【応神天皇紀】十四年項の条には次のように記されている。

 

この歲、弓月君百済から帰って来た。因って以て、奏して曰く、

「臣(私)は己の領国の百二十縣の人夫と共に(倭国に)帰化したいのだが、

それを新羅人が邪魔するが故に、(人夫達は)皆加羅国に留めてあります。」

故に葛城襲津彦を遣わして弓月の人夫加羅から召しあげようとしたが、

三年経っても襲津彦(『百済記』にある沙至比跪(さちひこ)は帰ってこなかった。

 

この時弓月君倭国に初見参したはずなのに帰って来たと記される点が気になる。

また、この文が【応神天皇紀】にあるからには、この時弓月君が奏上した相手で、

葛城襲津彦百済に遣わした人物も応神天皇のはずだが、どうもはっきりしない。

 

帰国後?弓月君はどうやら其の儘倭国に留まったようで、海人族航海隊長の

葛城襲津彦率いる船団が、弓月の人夫加羅まで迎えに行ったらしい。

因みに葛城襲津彦は武内宿禰の子で、仁徳天皇皇后・葛城磐之媛の父とされる。

更に神功皇后の母親は葛城高額媛なので、この辺りどうやら親戚関係がありそうだ。
 

応神天皇十六年八月の条、(応神天皇は?

平群木菟(へぐりのつくの)宿禰的戸田(いくはのとだの)宿禰加羅に遣わし、

精兵を授けて詔(みことのり)して曰く、

襲津彦が久しく帰ってこない、必ず新羅の邪魔を受けて滞っているのだろう。

汝らは急いで加羅におもむき、新羅を撃って、彼らの道を開きなさい。」

そこで木菟宿禰らは精鋭の兵を進めて新羅との境界で相対したところ、

新羅王は恐れおののいて、その罪に服した(降参した)と云う。

そして遂に木菟宿禰らは弓月の人夫を率いて、襲津彦と共に帰ってきた。

 

ところが、『神功皇后紀』五年春三月七日の記載にも同じく葛城襲津彦が登場し、

新羅の人質・微叱旱岐(ミシカンキ)を新羅の使者に騙され、奪還された話として、

新羅に到ると、蹈鞴津(タタラノツ=現在の慶尚南道釜山の多大浦)から軍をすすめ、

草羅城(サワラノサシ=現在の慶尚南道梁山にある城)を攻め落として帰ったとある。

このとき葛城襲津彦が俘囚(捕虜)として連れ帰ったのは、現在の桑原(クワバル)・

佐糜(サビ)・高宮(タカミヤ)・忍海(オシオミ)の4つの邑の漢人(カラヒト)たちの始祖

と記されており、ここでも葛城襲津彦加羅から人夫を倭国に連れてきている。

 

もしかしたら、この二つの記載は同様の事象について述べているのではないだろうか?

なにしろ百二十縣の弓月の人夫は、人数を推定すると数万人にも上ると思われ、

全員を倭国に帰化させるには数度にわたって倭国に運搬する必要があるわけである。

しかもこれらの記載は二つとも【神功皇后の新羅征伐】を思いおこさせる話である。

すると【神功皇后の新羅征伐】の本当の目的は、加羅から新羅の勢力を排除して、

加羅に留まる弓月君の百二十縣の人夫倭国に帰化させる為だったに違いない。

これ等が【応神天皇紀】に記されるのは『記・紀』による話の前後入れ替えである。

 

『以下はWikipediaからの引用である。』

 

弓月君『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、

秦始皇帝三世孫の孝武王の後裔である。

孝武王の子の功満王仲哀天皇8年に来倭、

更にその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来倭したとされる。

渡来後の弓月人夫は養蚕や織絹に従事し、

その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから、

波多の姓を賜ることになったという命名説話が記されている(勿論後付けだが)

山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、

仁徳天皇の御代に波陁(はた)姓を賜ったとする。

その後の子孫は氏姓に登呂志公(とろしのきみ)秦酒公(はたのさけのきみ)を賜り、

雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)の氏姓を賜ったと記されている。

『日本三代実録』によると、元慶七年十二月(西暦884年1月)、

惟宗朝臣(これむねのあそみ)の氏姓を賜ることとなった

秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上により、

功満王秦始皇帝十二世孫とある(故にその子の融通王は十三世孫に相当)。

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だが、BC210死亡の秦始皇帝と4~5世紀の功満王融通王との時代差は

六百年程あるので、何世代孫かの話はかなり適当であり、ほぼ信用できない。

この話の本質は彼らが秦始皇帝と縁の深い一族の王だと語っているのである。

 

つまり百二十縣の人夫倭国に帰化させることを大和朝廷に依頼したのは、

【応神天皇紀】にこの場面で百済から帰って来たと記される人物、

即ち融通王弓月君ではなくて、実際は融通王の父親の功満王であり、

応神天皇でなくて、本当は神功皇后に奏上したのではなかろうか?

確かに功満王=【神】【仲哀天皇紀】から、武内宿禰神功皇后と関わってきた。


だが『記・紀』融通王弓月君として登場させるも、父親の功満王は出てこない。

その理由は弓月君=融通王応神天皇と同一人物であることを隠蔽したからであろう。

 

『記・紀』は当時よく知られていた弓月君(秦氏)来倭は隠すわけにはいかなかったが、

仲哀天皇を殺し大和朝廷を簒奪した功満王の子の融通王応神天皇になったとしたら、

大和朝廷は此処で一旦途絶え、『記・紀』が主張する万世一系の体系が崩れてしまう。

 

そこで『記・紀』功満王を隠蔽した上で、その妻の息長足姫神功皇后と命名し、

仲哀天皇皇后とした。そしてその子融通王仲哀天皇の子の誉田別命にすることで、

秦氏家の応神天皇をうまく倭国の天皇家に組み込むことに成功したわけである。

また功満王神功皇后はその後畿内の大和朝廷を攻め、打倒して乗っ取ったので、

現実的にも応神天皇大和朝廷の後継者として、倭国を統治していくことになった。

 

功満王は最初に加羅に到ったとき、連れてきた百二十縣の秦氏を来倭させる為に、

新羅の目を盗んで日頃から倭国と朝鮮半島を往来していた海人族と密かに接触し、

海人族航海隊長の葛城襲津彦あたりの軍船に乗り込んで、側近らと共に来倭後、

海人族首長だった武内宿禰と掛け合って弓月の人夫(秦一族)の帰化を依頼、

次に天日鉾子孫で海人族たちに支持されていた息長足姫(神功皇后)と結婚し、

最後に仲哀天皇率いる大和朝廷軍団との締結を望んでいたのだと思われる。

 

因みに香椎宮における【神】との交信の儀式で神功皇后【神】に憑依される話だが、

この話は上記事実を『記・紀』編纂部神秘のオブラートに包んで見えなくしたようで、

その為にも仲哀天皇「高所に登って西を見ても国は見えない」と言ったとしている。

つまり、実際は遥か昔からよく知られていた新羅以下朝鮮半島の国々を如何にも、

倭国にとってなかなか行き着くことのできない未知の国の如く書いているわけである。

 

つまり、実際にこのとき香椎宮で行われていた出来事は、新羅出兵に関する

神=功満王、息長足姫、武内宿禰及び仲哀天皇による御前会議であったようだ。

但し、功満王武内宿禰、更に息長足姫の間ではもう新羅出兵の話は決まっており、

あとは如何にして大和朝廷軍を抱える仲哀天皇を巻き込むかだけが問題であり、

三名はもし断られたら仲哀天皇を暗殺し、大和朝廷軍を強奪しようと決めていたらしい。

そして、現実その通りになり、遠征していた大和朝廷の豪族たちも三人に従ったようだ。


こうやって『記・紀』編纂部応神天皇=融通王から始まる秦氏新王朝を隠蔽した。

だが『記・紀』が如何に隠蔽しようとも、当時巷でこのことは自明の話だったわけである。

だから応神天皇は元来秦氏の系譜であるとして、八幡神(八つ秦の神)と呼ばれている。

現在日本全国に四万四千社を超す八幡宮が立地することからも、

如何に昔はこの事実が日本中に浸透していたかが解るというものだ。

この辺りの話からはユダヤの十二氏族のうち、失われた十氏族の話が思い起こされる。

失われた十氏族のうち八氏族がこの時来倭した弓月の人夫=秦氏ではないだろうか?

彼らはトルコのヒッタイト(hatti=ハッティ=秦)に起源をもつ、秦氏の末裔なわけである。

 

これについては秦の始皇帝その人がユダヤ人の出自とする説がかなり出回っている。

 

またこの為に『記・紀』は第26代継体天皇を紹介する時、第15代応神天皇の五世孫と、

それ以前の天皇を完全に無視した不自然な紹介の仕方をしているわけである。

 

 

 

 

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