息長足姫(神功皇后)【神】の言葉を得て、教えられたとおりに祭祀を行うと、

吉備臣の祖の鴨別(かものわけ)らを遣わして、熊襲を撃つよう命じられました。

すると干支が一巡しないうち(十二日以内)に熊襲たちは自ら降伏してきたといいます。

 

だが息長足姫はこの時降伏しなかった羽白熊鷲(ハシロクマワシ)を撃とうとしました。

熊襲軍首領の羽白熊鷲仲哀天皇を弓で射ており、降伏するはずがありませんでした。

 

熊鷲討伐の為神功皇后軍橿日(香椎)宮を発つと、行軍中たちまち飄風が起こり、

御笠(ミカサ)が落とされた場所が現在の太宰府市内にあり、御笠と命名されました。 

同地には御笠川が流れ、下流部は応神天皇が生まれた宇美町(不彌国)に繋がります。

 

仲哀天皇歴9年3月17日に到ると、神功皇后軍松峽宮(マツオノミヤ)に入りました。

 

松峽宮(マツオノミヤ)=現在の松峽八幡宮(福岡県朝倉郡筑前町栗田605)

 

羽白熊鷲荷持田村(のとりたのふれ)=朝倉市秋月野鳥を本拠地にしていました。

秋月は江戸時代に秋月藩があった所で、現在は風光明媚な観光地となっています。

 

秋月城跡にある「黒門」と秋の紅葉


神功皇后軍は3月20日に層増岐野(ソソキノ=朝倉郡夜須町安野)に到着すると、

すぐに兵をあげて羽白熊鷲軍と戦闘を開始、勝利して熊鷲を撃ち獲ったとされます。

熊鷲は前回熊襲軍を組織したゲリラ戦で仲哀天皇軍と戦い、天皇狙撃に成功したが、

味方の熊襲たちが皆神功皇后軍に降伏してしまったので今回孤軍で戦うことになり、

ゲリラ戦のできない孤軍では実力を発揮できぬまま撃ち獲られてしまったのでしょう。

 

熊鷲が撃ち獲られると大和朝廷軍の将兵らは天皇の敵討ちが叶って安堵したらしく、

 「熊鷲を獲ることができて、我が心安し!」と叫んだとされます。

その為熊鷲が撃たれた層増岐野(ヤス)と名付けられたとする話がありますが、

勿論これは後付け話であり、本来『神代』の話に出てくる「夜須河原」ヤスで、

この地には夜須川が流れることからも、大昔からヤスと呼ばれていたようです。

 

つまり将兵らは仲哀天皇羽白熊鷲に射られた矢傷が元で亡くなったと信じており、

武内宿禰に暗殺されたことは緘口令が敷かれ、将兵には知られていませんでした。

 

 

羽白熊鷲の冢(朝倉市矢野竹・寺内ダム付属施設「あまぎ水の文化村」敷地内)

 

 

 

羽白熊鷲を滅ぼした神功皇后旗下の大和朝廷軍が次に狙った国はこともあろうに

大和朝廷故地である倭国の旧王都・邪馬台国=筑後山門(現在のみやま市)でした。

昔卑弥呼が治めていた女王国連合はこの頃になると熊襲に同盟国の多くを奪われ、

旧王都の邪馬台国だけがなんとか細々と生き延びる程度に衰退していたようです。

 

当時卑弥呼・台与後継者の邪馬台国女王田油津という巫女が務めていました。

そして邪馬台国景行天皇巡行以来の大和朝廷軍による救援を待ち望んでおり、

漸く待望の大和朝廷軍が畿内からはるばる救援に来てくれたと思って喜んでいたら、

その大和朝廷軍邪馬台国国民に牙を剥いたのだから、さぞや驚いたことでしょう。
大和朝廷軍の裏切りで邪馬台国は混乱し、女王田油津姫は殺されてしまいました。

この時、田油津姫の兄夏羽が兵を興して田油津姫の救援に駆け付けたが、

既に妹が殺されたと知り、逃げたとあります。この話の顛末は次回に持ち越しましょう。

 

この時の大和朝廷軍倭国旧王都の国民を何の躊躇もなく殺戮しているようだから、

もはやこの軍は大和朝廷とは殆んど関係のない全く別の軍隊に変貌していたようです。

『日本書紀』神功皇后による邪馬台国侵攻説話は新羅征伐より前に記されるけれど、

この話も例によって前後が入れ替えられており、実際は新羅征伐よりも後だったようです。

当時既に秦一族倭国帰化が進んでおり、大和朝廷軍の兵も多くが倭人から秦氏

入れ変わっていたのでしょう。つまりこの軍は既に秦一族軍と呼ぶべきだと思われます。
 

私はこの時大和朝廷故地で倭国旧王都の邪馬台国が本当に滅亡したと考えています。

この後一切邪馬台国再建はならず、筑後山門には今も鄙びた田園風景が拡がります。


 

田園風景が広がる現在の邪馬台国故地(筑後山門)「女山(女王山)展望台から撮影」

下方に高速道路、中央に九州新幹線が通る(奥は柳川市でここも邪馬台国の領域に入る)

 

みやま市瀬高地区には女山(ぞやま)があり、元は女王(じょおう)だったそうです。

つまり、どうやらこの女王山の麓にうわさの卑弥呼の居城があったらしいのです。

そして女王山の山頂付近には神籠石が並び、女王の祭祀の場の跡だと思われます。

山門国では大和朝廷に配慮して、女王山からの字を取って女山にしたと伝えられ、

卑弥呼以下の女王がこの地を治めていた痕跡が現在まで連綿と残されているようです。

 

ところで『日本書紀』編纂部は卑弥呼を間違って神功皇后と認識していたために、

折角筑後山門について言及し、卑弥呼後継者の殺害をも記していたにもかかわらず、

筑後山門『魏志倭人伝』の記す邪馬台国であることに一切気付かなかったようです。

だから当時の天照大神とも言える田油津姫を失礼にも土蜘蛛と呼んで侮蔑しています。

 

因みに筑後山門(旧邪馬台国)地方の古い伝承によりますと、

神功皇后軍と戦って死んだ邪馬台国の兵士たちは権現塚に埋められたといいます。

その証拠として、昔権現塚周囲から多数の人骨が出土したと伝えられるのです。

 

 

権現塚(径50m=百歩の円墳で、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の冢に丁度合致する)

 

この伝承が残ったのは昔筑後山門の住民は『魏志倭人伝』は一切知らなかったが、

『日本書紀』は読んでいたため、権現塚周囲から出土した人骨は神功皇后軍による

筑後山門侵略時に多数殺された筑後山門軍の兵士の骨だと考えたようです。

 

だが実際に田油津姫の死骸が埋められた権現塚ではなくて蜘蛛塚でした。

蜘蛛塚は現在のみやま市瀬高町大草の老松神社の境内にひっそり佇んでいます。

元々は前方後円墳だったらしいが道路工事で壊され、現在の部分だけ残ったとのこと。

つまり、悲劇の邪馬台国女王田油津姫は現代に至るも未だに悲劇の女王でした。

 

老松神社(福岡県みやま市瀬高町大草311)


 

老松神社の境内内にある田油津姫の墓とされる蜘蛛塚

(塚の上半分は削られ、今は石棺の上に小さな祠が建てられている)

 

 

昔は雨が降ると蜘蛛塚から血が流れると云う伝説があったらしいが、

後世の研究者により石棺内に塗られた朱が流れたと考えられたようです。

だが、血にせよ朱にせよ、何時までも流れる程の量があるはずは無く、

この話はたぶん『日本書紀』神功皇后軍田油津姫殺戮の話を読んだ人が、

墓の周りの土の赤さから、そのように感じただけではないのかと私は思います。

 

 

ところで私は権現塚卑弥呼の冢だと考えています。

何故なら、権現塚が径百歩の円墳であるからです。

邪馬台国畿内説派は一歩を兵士が大股で歩いた時の二歩分(1・5m)だから、

百歩を150mとして、ちょうど箸墓(全長278m)の後円部に合致すると言いますが、

『魏志倭人伝』の一里は文献上の長里、つまり一里=436m程は全くないわけで、

短里、つまり一里=75m程度であることからも、一歩は文献上の1.5mはあり得ず、

我々が普通に歩いた場合の一歩=50㎝程度と考えた方が良いと思われます。

その場合、径百歩は円墳の権現塚の径約50mとピタリと一致するわけです。

 

こうなると昔権現塚の周りから多量に出土したとされる人骨は、

卑弥呼が死んだとき殉葬された奴婢百人の骨である可能性が高くなります。

 

 

福岡県みやま市瀬高町の女山山頂付近に有る神籠石(卑弥呼の祭祀の場の跡か?)

 

 

 

 

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