全国の八幡宮で行われる放生会は宇佐放生会が発祥ではないかと思われますが、
この神事は養老四年(西暦720年)の大隅・日向隼人の乱後、1300年も続いています。
宇佐放生会の神事の元々の姿を私は、
秦王国の王都が田川香春から豊前宇佐に遷都された歴史を伝えた神事と考えています。
何故なら宇佐放生会は田川香春で鋳造した鏡を宇佐神宮に奉納する行幸だからです。
【宇佐放生会】の御神体(銅鏡)の御行幸の経路
田川郡香春
田川香春に在る古宮八幡宮の大鳥居
田川香春の古宮八幡宮本殿 この時は丁度改修工事が行われていました。
香春岳・三ノ岳山麓に在る「清祀殿」 鏡造師の長光氏が宇佐神宮に奉納される鏡を制作する所
① 宇佐放生会では、先ずは田川香春・三之嶽の採銅所で採掘した銅を使い、
鏡造師の長光氏により古宮八幡宮近くの清祀殿で鋳造された御神体(銅鏡)は、
香春神社の神官団により神輿に載せて担がれ、行列を作って運ばれていた。
放生会の際の御神体(銅鏡)の行幸(宇佐市HPより)
② 豊日別大神(猿田彦命)を祀る豊日別神社
豊日別神社は行橋市草場に坐すので地名を以て草場神社とも謂う。
この神社に放生会の御行幸が立ち寄る理由は秦王国時代に、
秦王国の重要な拠点都市だった京都(みやこ)の主要神社だったからであろう。
…現在では見る影もないが…
豊日別神社(行橋市草場)
因みにこの神社に猿田彦命が祀られている理由は、ご神体(銅鏡)の行幸を、
邇邇芸命の天孫降臨にもじって、香春から宇佐に降臨する際の道祖神だからだろう。
御神体の鏡は嘗ては海岸べりに在ったと思われる豊日別神社からは船に載せられ、
③ 古表、古要の両神社で祀られる海人族によって海上を運搬されたと考えられます。
古要神社 大分県中津市大字伊藤田
④ そして最後に御神体(銅鏡)は和間浜の浮殿で宇佐神宮神職団に献上され、
その後、宇佐神宮(宇佐八幡宮)に奉納される。
宇佐神宮の脇を流れて周防灘に下る寄藻(よりも)川下流の和間浜にある和間神社に設けられた浮殿
宇佐神宮神官団が海人族からご神体(銅鏡)を受け取る場所である(満潮時に足場は水没する)
⑤ 放生会では同時に蜷(ニナ)貝などの巻貝や魚が海に放たれるのであるが、
これは養老4年(西暦720年)の隼人の乱時に宇佐から八幡神が導いたとされる
征隼人軍によって大虐殺された隼人たちの霊を鎮めるために始まった神事です。
凶首塚古墳
大隅国から隼人の首百体を宇佐に持ち帰り、埋めた地に作られたとされる
この近くには殺された隼人たちの霊を慰める百体神社が建てられている。
百体神社
つまり、元々宇佐放生会は秦王国の王都が田川香春から豊前宇佐へ遷都されたことを
伝えるものだったのだが、養老4年(西暦720年)の隼人の乱時に宇佐八幡神が先導して
隼人の大殺戮に関わったとして、当時既に神仏合体が為されていた宇佐八幡宮としては、
鏡の行幸行事に稚貝の放流を合わせて、放生会と云う仏教行事にしたと考えられます。
この宇佐放生会は来年2020年(令和二年)に完全な形での再現が計画されています。
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