其風俗不淫。

男子皆露紒、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫。

婦人被髮屈祄、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵縑緜。

其地無牛馬虎豹羊鵲。

兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃。

所有無與詹耳・朱崖同。

 

書き下し文

 

その風俗は淫(みだ)らならず。

男子は皆露介し、木綿を以て頭に招け、その衣横幅、只結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。

婦人は被髪屈介し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを被る。

禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑緜を出だす。

その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。

兵には矛・盾・木弓を用うる。木弓は下を短く、上を長くし、

竹葥にあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃(を付ける)。

有るもの無いものは詹耳・朱崖(たんじ・しゅがい)と同じである。

 

現代語訳

 

倭人の風俗は淫らではない。(倭人は不倫をせず、貞操が堅い。)

この記載は陳寿が持っていた倭国に対する神仙思想(蓬莱信仰)によるものと思われる。

倭国は地上の楽園で無ければならないわけである。このことは後からも又出てくる。

 

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。

樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性は柔順で、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、

設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。

楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

 

これは班固の書いた『漢書』「地理志燕地条」にある文で、

中国で道の行われないことを悼んだ孔子は船に乗って、九夷に到らんと欲した。

すると楽浪郡南方の海中には倭人が存在したのである。その数なんと百余国。

彼らは歳時(渡海の季節)になると楽浪郡にやって来て、前漢王朝に貢献しようとした。

因みにこの文は、『魏志倭人伝』の最初の文、

舊て百餘國、漢の時に朝見する者有り。今使譯通じる所三十國。の元となっている。

 

 

男は皆、冠を被らず、木綿の布を頭にかけ、

その衣は横幅があり、単に結ぶだけで繋げ、ほぼ縫ってはいない。

倭人の髪形は前章の

夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。

今、倭の水人、好んで沈没し、魚蛤(ぎょごう)を捕う。

の文を受けて、断髪つまり、短い髪か坊主であることが解っている。

しかも多くの男性は、頭に手ぬぐいのようなもので巻いていたようだ。

更に体には幅の広い布を巻いていたようだ(下図)。

この姿は今でも漁村などでよく見かけるパターンである。

 

 

婦人は髪を束ねて曲げて(髷を結って)おり、

衣を作るのは単被のように真ん中に穴を空け、そこに頭を通してこれを被る。

これは貫頭衣と云って、古代世界では広く着用されていた。

古代ローマではトゥニカが上流階級の下着ないし下層階級の普段着として着用された。

日本でも弥生時代には一般的衣服であった。

 

以上、風俗博物館から転用。

 

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禾稲(かとう=稲や雑穀類)や紵麻(チョマ=大麻)を植え、

蚕桑絹積(さんそうけんせき=桑を食べさせ蚕を飼って絹を紡ぐこと)し 、

細紵(さいちょ=細かい麻布)及び縑緜(けんけん)=絹布(けんぷ)を作り出す。

つまり、当時の倭国では稲作が行われており、更に雑穀が植えられており、

紵麻(チョマ=大麻)は細紵(さいちょ)を作る繊維を採ることを目的にしていたようだ。

紵麻の実は中国のように麻薬として使っていたかどうかは解らないが、

卑弥呼の鬼道では、トランス状態に入るときに、使われていたかも知れない。

更には既に養蚕が行われ、縑緜=絹の布が制作されていたと言っている。

 

その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(ジャク)はいない。

この中で、虎や豹が居ないのは当然だが、

牛や馬、ヒツジ迄もいないのは何故だろうかと云うことになる。

やはり、これ等の大きな動物は人が大陸から持ち込んだものであり、
それ以前の倭国にはいなかったのだろう。

このうち馬の持ち込みに関しては、

応神十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。

卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也 とあり、

応神天皇十五年秋八月に百済王が阿直岐(アチキ)を遣わし、倭国に良馬二匹を献じた。

即ち、馬を軽坂の厩で養い、阿直岐を馬飼と為し、厩が有った所を厩坂と号したのである。

日本に馬が来たのは応神天皇施政時代(五世紀前半)のことであることが判る。

つまり、三世紀の卑弥呼の時代の倭国に馬はいなかったことになる。

 

鵲(ジャク)はカササギのことで、カチガラスとも呼ばれており、

烏(カラス)よりはやや小さめの白黒まだらな鳥である。

佐賀県や福岡県・熊本県・長崎県の有明海沿岸部に生息し、

この鳥が壱岐・対馬経由で倭国に持ち込まれたことを示しています。

 

佐賀城で撮影した鵲(ジャク・カササギ)

 

兵には矛・盾・木弓を用うる。

木弓は下を短く、上を長くし、竹の葥(矢)にあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。

 

矛は銅鉾が多く出土しているがそれは祭祀用であり、戦闘用の鉾は鉄鉾と思われる。

鉄鏃や骨族は共に九州から多く出土し、倭国大乱の地が九州だったことを窺わせる。

弓は上が長く、下が短く、竹の矢は、鎌倉・戦国時代や現在の弓道の弓矢と同じ。

倭国の弓矢は弥生時代から、この形が用いられてきたようである。

 

産出するもの、しないものは共に詹耳・朱崖(たんじ・しゅがい)と同じである。

詹耳・朱崖は共に海南島に在る地名であり、倭国が南方系であることを示している。

このことは、帯方郡使の倭国訪問が夏の間だったことも関係しているだろう。

 

 

 

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