景初二年六月
倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。
太守劉夏遣吏、將送詣京都。
(書き下し文)
景初二年六月。
倭女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣り、天子に朝貢せしめんことを求む。
太守劉夏、吏を遣わし、将に送りて京都に詣らしむ。
(現代語訳)
景初二年(238年)六月。
倭の女王(卑弥呼)は大夫難升米(なんしょうまい/なとべ)等を派遣して(帯方)郡に詣り、
天子(魏帝)に朝献させて欲しいと願い出た。
(帯方郡の)太守・劉夏は吏を派遣し、倭使を送りて、京都(洛陽)に詣らせた。
先ずはこの卑弥呼の朝献時が景初二年か三年かの問題がある。
『魏志倭人伝』の記載は景初二年なのに、世間ではこの景初二年の記載は間違いで、
『梁書』や『日本書紀』などの記載から、景初三年が正しいとの説が多数あるのだが、
私は『魏志倭人伝』の記載どおり、卑弥呼の朝献は景初二年だったものと考えている。
このことは既に拙ブログ「卑弥呼の魏朝献年は景初二年か三年か?」に書いた。
とりあえず魏の軍勢は景初二年の早期迄に帯方郡・楽浪郡を陥落しており、
景初二年六月には倭使が帯方郡を訪問出来ていた可能性が高いのである。
そして、倭使は吏に案内されて、当時魏軍が公孫淵と戦闘中の遼東半島を避け、
劉昕と鮮于嗣が帯方郡と楽浪郡を奪取した時にも使われた海上ルートを逆行して、
洛陽に至ったものと考えられる(上図)。
因みにこの時倭使を案内した帯方太守は劉夏(りゅうか)と記されているが、
この人物は帯方郡を落とした劉昕(りゅうきん)と同一人物である可能性が高い。
このことについては陳寿の誤植か?とも思われる。
ところでこの朝献では戦闘中の公孫氏の領域突破ばかりが問題となっているが、
当時の遼東半島周囲海域には呉海軍が出没していたわけである。
この時、公孫氏軍は魏の大将軍・司馬懿仲達が押さえていたが、
神出鬼没の呉海軍の攻撃に遭遇する危険性からも、劉夏は吏を派遣し、
倭使を洛陽迄安全に引率する必要があったのである。
公孫淵は魏の討伐に直面すると再び呉に称臣し、援軍を求めた。
(嘗て公孫淵に裏切られ使を殺された)呉人が使者を殺そうとしたところ羊衜が諫め、
「奇兵を潜行させて観察し、魏が苦戦するようなら公孫淵を援けて恩を着せ、
膠着しているようなら沿岸を劫掠(劫略)させて留飲を下げましょう」と諭した。
かくして呉は公孫淵に援軍を出した。 (『漢晋春秋』)
だが、『三国志呉書』によると呉は、
赤鳥二年(239)春三月、使者の羊衜(ようどう)・鄭冑(ていちゅう)と
将軍孫怡(そんい)を遼東に行かせ、牧羊城(旅順口)で、
魏の守将の張持(ちょうじ)・高慮(こうりょ)らを撃って男女を虜得したと記している。
このとき公孫淵は司馬懿に既に討ち取られており、彼らは空しく帰還したのだろう。
但し、この記載が重要なのは、この年(239年)は倭使が帰還した年で有ることだ。
この時は、魏の守将である張持・高慮らも呉軍に討ち取られている程なので、
倭使は帰還時に遼東方面で呉軍に襲われる危険性がかなり高かったのである。
だから倭使は再び洛陽から吏に守られて帯方郡まで帰り着いたのであろう。
勿論倭使帰還時に海岸沿いは呉軍が出没していたから、吏は海岸沿いルートを避け、
既に公孫氏討伐の終わっていた陸路を通って、倭使を帯方郡まで引率したのであろう。
(上記・倭使の帰りの経路)
春三月に呉を発った呉軍が遼東に着いた頃、倭使は丁度襄平城辺りを進んでいただろう。
そして、帯方郡以降は(名も無い仮の)帯方郡使が倭使を引率し、倭に帰り着いた。
この時の帯方郡使が『魏志倭人伝』の倭国へ至る道程記事を書いた連中である。
この時の帯方郡使は「郡使往來常所駐」と記される伊都国に留まっており、
倭国の王都・邪馬台国迄は到来していないと想像される。
正使で無い(仮の)帯方郡使である彼らは、倭女王に謁見する資格がなかったのだろう。
実際に倭国の王都・邪馬台国へ至り、倭女王卑弥呼に謁見することが出来たのは、
翌年(正始元年)に派遣された魏の正使である帯方郡使の梯儁らである。
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