敦賀駅前に立つ、「都怒我阿羅斯等」の像

単に甲冑を着けたサラリーマンという感じで、ダサダサ。

因みに「ツヌガアラシト」とは兜のクワガタが角に見え、「角がある人」と呼ばれたに違いない。

 

 

『古事記』『日本書紀』には共に以下の如く、極めて不思議な記載がある。

 

『日本書紀』一云

「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。

時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」

然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。

 

『日本書紀』のある伝に云く…
天皇が皇太子となった初めの頃に越の国に行ったとき、

角鹿(ツヌガ=敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を拝(オガ)み祭りました。

その時に大神と太子が名前を取り換え、

大神を來紗別神(イザサワケノカミ)と呼び、

太子の方は譽田別尊(ホムタワケノミコト)と名付けました。

 

そうすると、大神の以前の名前は譽田別神(ホムタワケノカミ)、

太子の元の名前は來紗別尊(イザサワケノミコト)だったことになります。

だが、本当はどうなのか解っておらず、未だ詳細不明である。

 

ほぼ同様の記事が『古事記』にもあります。『古事記』の場合には、

 

武内宿禰が太子を伴って敦賀の宮を訪れていた時、

武内宿禰の夢に気比大神が現れ、太子と名を取り換えたいと告げた。

そして、もし取り換えてくれたら、お礼を気比海岸に置いておこうと言った。

 

そして夢で云われたとおりに次の日、気比海岸に行ってみると、

鼻の破れたイルカが横たわっていた(ーところでイルカの鼻って何処?頭なの?)。

 

これを見た太子は「神が私にご食膳の魚をくださいました。」と喜んだとある。

『古事記』ではこの御食つ(ミケツ)大神が気比(ケヒ)大神となったと記されます。

また、イルカの鼻の血が臭かったから、この地を血浦と呼び、それが訛って敦賀となった。

 

ところで血浦が敦賀とはかなり強引なこじつけの気がするが、勿論これは後付け話で、

敦賀とは本来、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の(ツヌガ)に因んだ名なのであろう。

 

誉田別命はこの時、先祖の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)を祀ったのではないか?

それが気比の大神として、応神天皇の時代を跨いで現代まで続いているのである。

何故なら敦賀の国は都怒我阿羅斯等が倭国に住み着いた地とされるからだ。

 

ここで、学説では都怒我阿羅斯等天日矛(アメノヒボコ)は同一人物とされており、

天日矛は誉田別命の母親・神功皇后(息長足姫)の先祖とされているのである。

天日矛の子孫は、但馬母呂須玖(タジマモロスク)、但馬斐泥(タジマヒネ)と続き、

ずっと辿ると、葛城高額比売命(カズラギノタカヌカヒメノミコト)がいて、

この姫が第九代開化天皇の玄孫の息長宿禰王と結婚してできた娘が、

応神天皇の母親の息長帯比売命(息長足姫)とされているのである。


因みに都怒我阿羅斯等は『日本書紀』の垂仁天皇紀に記される加羅の皇子であり、

崇神天皇の時代に倭国に訪れ、敦賀に住み着いたとされている。

もう一人の天日矛は『日本書紀』の同じく垂仁天皇紀に記されるが、

垂仁期に来倭した新羅の皇子で、但馬国の出石(イズシ)に定住したとされる。

 

また、天日矛は『古事記』では、応神天皇記に記されている。

これは応神天皇の家系が天日矛と関係が深いことを知らせる為ではないだろうか?

 

但し、天日矛は『記・紀』にはストーカーの如く書かれ、あまり良くは書かれていない。

思い上がった天日矛が妻を罵ると、妻は「母の国に帰る」と言って小舟に乗り出て行った。

そして妻は倭国に至ると、大分の姫島を経由して、難波の津に入った。

この妻は難波の比売碁曽(ヒメゴソ)社に坐す阿加流比売(アカルヒメ)と云う神です。

天日矛は阿加流比売を追って倭国に来たが、難波神に妨げられて妻には会えず、

仕方なく但馬国に向かったとされ、現在但馬国の出石(イズシ)神社に祀られている。

 

ところで、神と太子が名を取り換えるとはいったいどういうことなのだろうか?

そのことは『古事記』にはその理由と思われる話が記されているので判りやすい。

 

太子・誉田別命は品陀=誉田(ホンダ)真若という王の娘である三姉妹の、

皇后の中姫命、姉の高城入姫命、妹の弟姫命と結婚したと云うのである。

すると名を取り替えた神とは、三姉妹の父親、品陀(誉田)真若王であることになる。

このことは現代で言えば太子が婿養子に入ったようなもので特に珍しい話では無い。

 

つまり、気比大神は品陀真若王と云うことになります。

 

品陀真若王は第12代景行天皇の子である五百木入彦(イホキイリヒコ)の子とされ、

五百木入彦は第13代成務天皇(若帯彦命)や大和武尊(倭健命)の兄弟なのである。

つまり品陀真若王はれっきとした天皇家の人物であり、誉田別命は天皇になる為に、

是非とも品陀真若王の婿養子になる必要があったのだ。その為に名前を取り替えた。

 

やはり、誉田別命は実際には仲哀天皇の息子では無いのであろう。

息長足姫は仲哀天皇が亡くなった日に誉田別命を妊娠したとされており、

父親は仲哀天皇ではなく、妊娠を宣言した神(功満王)の可能性が高いのである。


息長足姫と武内宿禰は神(=功満王)の言いなりとなって仲哀天皇を暗殺すると、

仲哀天皇の二人の息子、籠坂王と忍熊王を騙し討ちにして倭国の実権を握った後、

もし誉田別命が仲哀天皇の実子であればれっきとした天皇家の一員なのだから、

天皇として即位するのに何の不都合も無かったはずである。

ところが実は功満王の子である誉田別命は自らの倭国統治を世間を認めさせる為に、

天皇家の一族となる必要があったから、誉田真若王の婿養子になったのであろう。

 

ところで『日本書紀』には何故か妻となった三姉妹の父親の名が記されていない。

これは『日本書紀』には誉田別命の名の由来が、生まれた時に腕の肉が盛り上がって、

その形が鞆(ホムタ=弓を射る時に使う皮の防具)に似ていたとしたからであろう。

 

もし『日本書紀』が太子の妻の父親の名が誉田真若王であることを明かしてしまうと、

それで誉田真若王が太子と名前を取り替えた神であることが読者に解かるから、

太子の腕の肉が盛り上がっていたから鞆と名付けた話が嘘であることがバレてしまう。

 

 

 

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