2mの縄文海進があった時の福岡市(奴国)周辺の海岸線図

これでもかなり海没する地域が出現し、糸島水道が現れる。

 

さまざまな自説に拘ってばかりの邪馬台国論者によくある話なのですが、

自説を成り立たせるために現実にはあり得ない話を作ってしまう良い例として、

弥生時代には筑後山門を始め海岸沿いの地域は「縄文海進」により海底に沈んでいたという話をまことしやかに説く論者を多数見かけます。

 

 

アートワークス 時間探偵(二つの九州)より引用

 

縄文時代は今より、海が多かったのだ。 

邪馬台国の時代では、今の地形より海水面は40mほど高かったといわれている。

試しに、下記のソフトを使って30m上昇した画像をみてみると、確かに福岡と有明海は繋がっていた。

 

⇒ 即ちこの論者は弥生時代と縄文時代を取り違えているようです。しかも40mとはあまりにも大きすぎる。

縄文海進の最盛期でも海面上昇は2-3m程度だったと言われています。

 

 

上図 (85)共存していた入植者と倭人から引用

 

この地図によると福岡市はほぼ水没しており、福岡に有った弥生時代の遺跡、

吉武高木遺跡、板付遺跡、金隈遺跡、須玖岡本遺跡などはすべて水没してしまう。

つまり、弥生時代の福岡に人は一人も住んでいなかったことになるのだ。

 

ところがこの「縄文海進」とはその名のとおり、

縄文時代前期(約1万~5500年前)にあった海進のことである。

最終氷期のあと気候が温暖化に転じ、

約6000年前をピークに現在の海面より約2~3メートル高くなったとされ、

当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られる。

 

つまり弥生時代(約1700~2300年前)頃には「縄文海進」はとっくに終わっていたのである。

 

どうやらこの縄文海進を弥生時代に持っていきたがる論者の目指す処は、

大宰府-筑紫野間に御笠川と宝満川を繋ぐ水路を作りたい。

即ち、不彌国から投馬国、邪馬台国へ至る、河川水行路を作りたいらしいのである。

 

これで不彌国以降の南投馬国へ至る水行20日と

南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月が御笠川-宝満川を経由する河川水行となる。

実際著書にそう云った思い込みの強い説を書き込んだ論者は何人もいる。

だが当然ながら、地質学的にそのことが証明されたためしはない。

 

そして邪馬台国=筑後山門説を封じたいらしいが、それは姑息な考えと云うものである。

 

このことは筑後山門の中で比較的低地にあたる柳川市から、

弥生時代の遺跡が多数見つかっていることからもうなずける話である。

 

海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。

 

徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。

 

また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。約3,500㎡の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。

 

蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。

 

これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。


(以上柳川市HPから抜粋。)

 

とりあえず、弥生時代の沿岸に現代よりも海が拡がっていたということは、

当時は現代のように埋め立て工事が進んでおらず、

自然のままの海岸が拡がっていたから、

その分、陸が狭かっただけということになろう。
 

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