eu-balance〜インナーチャイルド・フラワーエッセンスセラピー〜

インナーチャイルドの勘違いを紐解き、自分の本質と軸を取り戻して、喜び溢れる生き方へのシフトをお手伝い

最後のメッセージは『家族愛』

2019年11月25日 | 介護・認知症
SNSで繋がっている方には、山ばっかり登っていてこの人何しているんだろう、
って思われてそうですが、ここ半年ほど水面下では怒涛の日々でした。

まず、8月に7年勤めた会社を退職。辞める時点でその先の予定は何も立っていなかったのですが、
何か辞めなければならない、という衝動にかられ、、、直感というのでしょうか。
後から思うと本当にベストなタイミングで退職したなと思いますが、
8月は旅行三昧で帰京してきた月末に父の一周忌を終えた直後に、母が誤嚥性肺炎に。

認知症が始まったのが正確にいつか、もうもはや分からないですが、
父と正反対の介護ニーズを持つ母の認知症介護が始まり、
全身麻痺の父とのダブル介護で、私も一時期は本当に疲弊して、、、
(こんなブログも書いてました…『親が認知症になったら』
よく乗り越えたなって今は思いますが、最後は取り付く島もなくあっという間に逝ってしまった父と違った、
母の看取りという経験をすることになりました。

医師の親友も色々聞いてくれて、拘束しない医療をしてくれる病院に入院という選択肢もなくはなかったですが、、、

(認知症の人が入院すると本当に見ているのも辛いような拘束状態で治療されることもあり、
それを以前経験していたので、それだけはどうしてもできないと強く思っていたのです)

誤嚥性肺炎はそもそも嚥下機能の低下で起きていること。

すでに吸引がときどき必要な状態になっていた母の肺炎を一時的に治したところで、
また同じことの繰り返しになることは火を見るよりも明らかでした。

しかも、入院が施設より遠い場所で、更に長期化してしまえば私もいつまで付き添ってあげられるか分かりません。

元々病院嫌いで、ハーブやアロマなどの自然療法の種を私に植え付けたのは母です。
その母が無理な延命治療など、ましてや管に繋がれたまま最期を迎えることなど望んでいるはずがない・・・

元気だった頃の母の意思を尊重し、住み慣れた老人ホームでの看取りを選択し、
涙を流しながら看取り同意書にサインをしました。

しかし、この治療を選択しない、という選択のプロセスはそれが本人にとって、
そして家族にとって納得できるベストだと分かっていても、本当に辛かった。

決めてからも数日間、横で付き添いながらずっとずっと、
『まだ病院に送ったらなんとかなるんじゃないか』という思いが横切り、
顔が変わってしまいそうなくらい泣いていました。

最初は話しかけると反応があって、色々質問すると頷いたりしてくれていたのですが、
それでも『食べたい?飲みたい?』と聞くと、口を真一文字に結んでうんともすんとも言ってくれません。
母も自分の旅立ちのタイミングを、もう分かっていて、
無理はしたくないのだなと本能的に感じました。

そして、日毎に食べられる量、水分摂取量が減っていき、、、
母の肉体が死に向かっていることは、不可逆だとようやく腑に落ちた日、
母が見たいのは私の泣き顔ではなく、笑顔のはず、と気を取り直し、
いつものように話し掛けたりできるようになりました。

もういつまでそこにいてくれるか分からない母の手を握って、
横で話しかけたり本を読んだり、ただただ静かに母との時間を過ごし、寄り添っていました。

※その時読んでいたこの本が、気持ちを落ち着かせてくれました↓
「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか (講談社文庫)

友人がくれたこの本も…
普及版 モリー先生との火曜日

もう何日もほとんど水も飲めず、目からもどんどん光が奪われていくような母でしたが、
ちょっと作業をしようと、繋いでいる手を離そうとすると、きゅきゅっと握り返してくるのです。

幼稚園に通うとき、いつも繋いでいた母の手。。。いつも温かかった母の手。。。

もう随分痩せ細ってしまっていたけど、変わらず母の温かい手でした。

肺炎を患っていただけに、息遣いも荒かったけど、
何か出産シーンを見ているようで、生と死が行き交う場面の神秘を感じました。



私はこの母から生まれてきた

母の魂の旅立ちを見守ろう



母の兄弟が集まってくれることになっていたその日の朝、
一番遠方のおじが家を出る直前に母は静かに息を引き取りました。

まるで『もうまたすぐ集まるんだから、二度も来なくていいよ』という気遣いかのように。。。

母が息を引き取ったその日、母がずっと手入れをしていたボランティアの花壇で咲き始めた、アメジストセージ。


花言葉を調べてみたら『家族愛』でした。
いつも家族を優先して、小さい頃は手作りのお菓子がほとんど、服も沢山作ってくれていた、そして花が大好きだった母らしいメッセージ。

もう最後に私の名前を呼んでくれたのがいつだったかも覚えていないほど、
最近は会話もあまりまともに成り立たなくなってしまっていて、
母とは長い長い時間を掛けて、ゆっくりお別れをしているのだと思っていました。

だから覚悟はできているし、心の準備もできているだろうと。

だけど、実際は想像以上の、全身で感じるかのような感情的体験でした。
もう介護時代のあれこれや、いろんな思い出が、
いいことも悪いことも走馬灯のように思い出されて、感情が吹き出し、葬儀が終わるまで、毎日泣いていました。

要望や主張がはっきりしていて、その要望を打ち返せるだけ打ち返しておけば良かった父の介護。
認知症介護はそもそも本人の意思表示を汲み取るのがなかなか難しい。。。
父の介護はやりきった達成感すら感じていましたが、母の介護に関しては、
何かもっと違う風にできたのではないか、そんな思いも渦巻いていたのだと思います。

でも葬儀に母の古いお友達が何人も来てくださり、長い間会えていなかった親戚もいろんな話を聞かせてくれ…

母の人生も晩年は大変だったけど、若い頃は登山や旅行も沢山して、楽しいことも一杯あったこと。




あんなに『私は自信がない』と言っていた母が、学級委員みたいなことをよくやっていたこと。


建築士としてある意味キャリアウーマンの先駆けだったこと。


私を凄く頼りにしてくれていたこと。


そして何より本当に愛して育ててくれたこと。



黒かったオセロのピースがカタカタと白いピースにひっくり返っていくかのように、母と母の人生に対するイメージが変容していきました。

占星術で死と変容、ヒーリングは全部同じ部屋に象徴されているのが、これほど腑に落ちた経験もありません。

母の死を以ってしか知り得なかったこと、私が癒やされなかったこと、沢山あって、
側で時間を掛けて看取らせてくれたことに今では心の奥底から感謝です。

そして、喪失って、寂しいけれど、結局自分がどれだけ愛されたり享受していたかを実感するプロセスなんだなと。
だから、結局は何も失っていない。むしろ、より深く愛を認識させられた気がします。





これからご両親が認知症になる可能性がある方も、既になっている方もいるかもしれませんが、

介護欝から看取りまですべて経験してみた私の個人的見解では、
認知症は本人が選んだ『店仕舞の仕方』なんじゃないかなと思っています。

周りは是非、良い悪い、正しい正しくない、というジャッジを捨てて、
ありのままのその方を感じて接した方が上手くいくのじゃないかなと、、、
というか、それが周りの人にとってのレッスンなんじゃないかと思います。

だから、もし認知症の人が現れたら、
躍起になって正そうとか、治そうとかする前に、まずご自身のあり方に目を向けてみてください。

いや、過去の私がそれを出来たかは分かりません(笑)
でも今なら絶対その方がお互い楽になると言えます。

このことはまたもう少し折を見て書いていきたいなと思っていますが、
世の中に左脳でジャッジする人が増えれば増えるほど、認知症は増えていくんじゃないかと思っています。
陰陽は常に半々ですからね。
迷ったときは是非ハートと愛で選択して欲しいと思います。

そんなこんなですが、実は不思議なご縁で来月からフルタイムの仕事も決まり、
サロンやセッションのやり方も以前のままというのは違和感を感じているので、
現状のサロンは一旦閉じることになりそうです。

ただ、自分の介護経験を参考にして下さる方もいるようなので、これからは発信しつつ、違った形で活動できればと思ってます。

父と母の死を通して、自然界のタイミングの完璧さに、人のマインドのちっぽけさを思い知らされた感覚があり、、、
最近あまり左脳に偏らずに、直感で行動してみよう!という感じでやってますが、意外とその方が上手くいく気がしています。

常に自然との繋がりを意識させてくれた母。
自分も大いなる自然の一部でしかない…自分の気持ちと直感に素直に寄り添っていれば、そこに答えはあるはず…
ということで、最近は自分軸にいかに集中するかがテーマです。

ママ、沢山の愛と学びをありがとう。
パパと正反対の生き方、逝き方を見せて、私の幅を広げてくれてありがとう。
あなたの娘でよかった。
最後のママの清流のような澄んだエネルギーを私はいつも心の中に大切にとっておきます。


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