くま吉とパニックマは、紅葉の季節に、11日間かけて、近畿地方を巡りました。今日は、2日目の京都観光(2)の様子をご覧いただきます。目的地は、慈照寺銀閣(世界遺産)、南禅寺、平安神宮、知恩院、八坂神社、二年坂、産寧坂、清水寺(世界遺産)、蓮華王院三十三間堂、智積院です。

ホテル5泊6日のうち2日目の朝

京都では、AirBnBで見つけた元離宮二条城近く京都中心部の宿に5泊6日お世話になっており、2日目の朝を迎えた。

2日目、京都観光

京都2日目の本日は、最初に慈照寺銀閣へバスで移動、その後ひたすら徒歩で、東山エリアを回る。

まず、宿から元離宮二条城を通り過ぎた先にある堀川丸太町バス停へ15分歩き、銀閣寺道バス停まで20分バスに乗り、慈照寺まで10分歩いた。銀閣寺道バス停からは、銀閣寺橋まで琵琶湖疏水分線に沿った歩道が美しく、銀閣寺橋から南は「哲学の道」と呼ばれる。銀閣寺橋から慈照寺への参道は、緩やかな上り坂になり、通りの左右に土産物屋が並んでいる。土産物屋が並ぶ参道に「京都に来たなあ」とワクワクした。

慈照寺(じしょうじ)は、臨済宗相国寺派の寺院(相国寺の境外(けいがい)塔頭)。山号は東山(とうざん)。開基は室町幕府8代将軍足利義政、開山は夢窓疎石とされている(夢窓疎石は実際には1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という)。足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。ユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一つ。

慈照寺の中に入って直ぐに、銀閣が立っている。その後、順路は錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園の周りを回る。庭園の奥の丘の上から、銀閣を見下ろすことができる。

錦鏡池の向こうに銀閣が立っている。足利義政は、応仁の乱の直後、1482年から、この東山山荘(東山殿)の造営を始め、山荘の完成を待たずに移り住み、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送った。義政の死後、東山殿は禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始された(寺号は、義政の院号である慈照院殿にちなんでいる)。

慈照寺を後にし、参道を銀閣寺橋まで下りた後、哲学の道を歩き、さらに南下し、合計30分ほど歩き、南禅寺へ到着した。本来なら西に回り込んで三門から境内に入る順序だろうが、北側からそのまま境内へ入った。

南禅寺(なんぜんじ)は、臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)。南禅寺は、後嵯峨天皇が造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)が前身で、亀山上皇により寺に改められた日本最初の勅願禅寺。南禅寺は、後醍醐天皇により五山の第一とされたが、足利義満によって(自らの建立した相国寺を五山の第一とするために)「別格」として五山のさらに上に位置づけられた。南禅寺は、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。南禅寺は、応仁の乱で焼失した後は再建は進まず、江戸時代になってから復興した。

南禅寺の境内には、明治維新後に建設された琵琶湖疏水水路閣が通っている。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したらしい。

南禅寺三門は、知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。歌舞伎「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)二幕目返しで、石川五右衛門は南禅寺三門の上で「絶景かな!絶景かな!」という名科白を回す(ただし、創建当時の三門は1447年に焼失しており、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った1628年の再建)。500円と狭く急勾配の階段を登る代償を払うと、三門に上がることができる。絶景だった。

南禅寺を後にし、西へ、平安神宮まで徒歩30分。車道に立つ巨大な朱色の鳥居が壮観だ。

平安神宮(へいあんじんぐう)は、1895年(明治28年)に、平安遷都1100年を記念して遷都を行った第50代桓武天皇を祭神として創建された。また、皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。

平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されている。1976年(昭和51年)に、火災(平安神宮放火事件)が発生したが、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれ、本殿や内拝殿は3年後に再建された。比較的新しい社殿であるが、綺麗に整っているとも言え、心も洗われた。

平安神宮を後にし、南に真っ直ぐ20分歩いて、知恩院へ。

知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然。

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」あるいは「ちおいんさん」と呼ばれている。

知恩院三門は、徳川2代将軍徳川秀忠が寄進したもので、1621年の建立。高さ24メートルあり、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門である。

三門自体も巨大だが、三門をくぐった先の石段が急勾配で、すぐに見下ろす形になった。寺院が、山の中腹に建てられていることを実感した。

三門の先の石段を登ると、本堂(御影堂)や多宝塔などの中心伽藍がある。三門や中心伽藍は江戸時代の造営で、さらに山の上に開創当初の寺域があり、勢至堂、法然廟などがある(が、朝から歩き詰めで少しバテてきたことと、時間の余裕もないことから、上へ登るのはやめた)。

知恩院のすぐ南にある円山公園を通り抜けて、八坂神社へ。

八坂神社(やさかじんじゃ)は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊(すさのをのみこと)を祭神とする関連神社(約2300社)の総本社(と主張をしている)。元の祭神であった牛頭天王(ごずてんのう)が祇園精舎の守護神であるとされていたことから「祇園神社」と呼ばれていたが、1868年(明治元年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。通称「祇園さん」と呼ばれている。7月の祇園祭(祇園会)で有名であり、また、正月三が日の初詣の参拝者数(約100万人)は京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位。祇園の町のすぐ近くにあるにぎやかな神社で、境内も広大というわけではなく、混雑していた。

時間があれば、祇園の町を歩き、祇園のメインストリートである花見小路や、歌舞伎発祥の地と言われる京都四條南座、その後は、臨済宗京都五山第3位であり俵屋宗達「風神雷神図」所蔵でも有名な建仁寺、豊臣秀吉を祀る高台寺にも行きたかったが、本日のスケジュールは過密すぎて、あきらめた。

清水寺への参道である二寧坂を行く。参道には土産物屋が並び、とても「京都らしい」町並みだ。

さらに、清水寺への参道である産寧坂を行く。やはり、参道には土産物屋が並び、とても「京都らしい」町並みだ。

二寧坂か産寧坂で小休止しようと思ったが、とても混雑していたこともあり、お店に入りそびれてしまった。産寧坂の先の清水寺への最後の参道も、同じように混雑していたが、さすがに疲労もピークに達していたので、抹茶アイスを買って食べた。

清水寺(きよみずでら)は、かつては法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る寺院。山号は音羽山。ユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一つ。

清水寺は、広隆寺、鞍馬寺とともに、京都では数少ない平安京遷都以前からの歴史をもつ寺院の一つ。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場。観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)の所説に基づき、本堂は、懸造(または舞台造)で作られており、「清水の舞台」とも呼ばれている。2017年より、本堂檜皮屋根葺替工事が行われている。

本堂の屋根が工事中、とはいえ拝観できないわけではないようだったが、実際清水寺には何度も参拝しているので、今回は境内の奥には行かないことにした。去り際に、三重塔を下から見上げた。紅葉の木々を伴った朱色の三重塔が美しかった。

清水寺から山を下り、さらに南へ、30分ほど歩いた。次の目的地は、道順としては智積院だが、閉館時間が30分早い(冬季は受付15時30分まで)三十三間堂へ先に行った。

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、天台宗妙法院の境外仏堂であり、建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。本尊は千手観音で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。堂内中央に本尊が安置され、本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり1000体の千手観音像が立ち並び、本尊の背後にさらに1体の千手観音像が立っている(合わせて計1001体の脇仏)。さらに、風神、雷神、二十八部衆もいる。無数の仏像が立ち並ぶ堂内は、壮観であり、不思議な世界だった。

「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」に由来する(ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語)。「33」は観音に縁のある数字で、「法華経」等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。

江戸時代には、各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121メートル)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。軒天井に当たらないように矢を射抜くためには、強弓を強く射なければならず、弓術家の名誉となった。

智積院(ちしゃくいん)は、真言宗智山派総本山の寺院。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)、本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺、東京都八王子市の高尾山薬王院がある。

智積院には、中国の廬山を模して造られた名勝庭園がある。この庭園は、「千利休好みの庭園」と伝えられている。大書院の畳の上に座って、庭園を眺めることができる。智積院は、観光地として広く認知されておらず、観光客も少なく、上質な静寂な時間を過ごすことができた。

智積院には、約20年前、学生の頃、三十三間堂に行った際だと思うが、よく知らずに立ち寄り、その時はまさに自分一人で、ゆっくりと時間を過ごすことができ、とてもすばらしい体験だった。そのため、今回の京都旅行でも智積院を外すことは考えられなかったし、再び訪れることができてよかった。

日も暮れた17時前、本日の全日程を終えた。バスで宿に戻ったが、京都中心部を通るルートだったため、渋滞がひどく、時間を必要以上に要した。

宿に帰ると、パニックマに「外食して来い」と言われたので、小一時間さまよい、「京とうふのお好み焼き」のお店に行きついた。京とうふが入った「ふかふか焼き」をいただいた。店員さん「最初は出汁と梅ペーストでお召し上がりください」という京とうふお好み焼きは、大変美味しゅうございました。そして、ソースをかけても美味しかった。

パニックマ日記(2日目)

旅2日目です。今日は少し体調が悪いです。私は、大体、初めてのお宿での初日はぐっすり疲れがとれないので、まぁこんなものかと自分を責めない(←ここが一番大事)。今日は頑張らないと決める。

今回の旅で大変お世話になったアイテムは、チーズ、柿ピーまたはミックスナッツです。これらを毎日ちょこちょこ食べていました。

そして、この日の日中は、立ち寄ったお土産屋さんで試食をしまくっていました。八橋などのお菓子、お漬け物、舞妓はんヒーハーのお煎餅など、結構お腹いっぱいになるくらい。

そしたら、食べ過ぎたのか、低血糖になってしまって、夜ご飯には調整をかなりかけたくなった。くま吉には、お一人外食をしてもらいました。ありがたや。

夜ご飯には、昨日の残りのキャベツと家から持ってきたスープを食しました。

今回の旅には、スープ類も沢山持っていっていました。粉末のおだしも。温かい飲み物を飲むと副交感神経が一気に働くので、 必須アイテムですね。

次回につづく

以上、2日目の京都観光の様子をご覧いただきました。翌日も、引き続き、京都観光に出かけます。

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