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旧精神科医療は思想警察なのか?

ターミナル期におけるトータルペインが理解できない理由

2019年09月21日 | 看護 死生観レポート

今回はターミナル期における、トータルペインについて実習において理解できない理由について説明していきたいと思います。

トータルペインとは全人的苦痛や全人的痛みなど言いますが、看護の目的が生活する上で障害となってくる、苦痛の緩和が、病気、疾患を抱える人の生活の援助の中で重要な部分になってきます。

結論を初めから言いますと、死ぬ間際、医療行為をこれ以上行えない、または効果が認められないと認定された患者は、一体何に苦しんでいるか?というと、「自分の生き方」「自分の人生」について苦しんでいるのです。

それは、ここでは「心理的、社会的苦痛」という言い方をしますが、そのような言い方をしても本質は理解できません。

医学では、心理的に苦しんでいる人に対して、何をするか?といったら、精神療法や薬物療法しか方法が存在しないからです。

他の代替療法が存在するかもしれませんが、診療報酬が受けられる医療行為ではその程度しか方法が存在しないのです。

ですから、病院に入院していても何ら問題解決できません。

また、社会的苦痛は結局のところ、心理的苦痛に結びついてくるのですが、「私の人生はこれでよかったのか?」という問い、問題に対して、医療は解決方法を持っていません。

極論からすれば「これだけ悪化する前に、何で気付かなかった?医療にかからなかったのか?」

と末期患者を責めることになるかもしれません。

また、高齢でターミナル期の患者であれば、「年齢的な問題を挙げられると、”死にあがなえない現実”を突き付けるだけ」の残酷な最期を医療が患者に対して提示するだけになるのです。

どれだけ食べ物や水を経口摂取や経管栄養法で摂取しても、臓器や脳が動かなければ、生命活動はできませんよね?

車に例えるのであれば、どれだけガソリンを給油しても、エンジンが上手く動かない、エンジン制御をするECUが壊れている、バッテリーが放電してしまっている、このような状態では、ガソリンを爆発させて、タイヤを動かすことで、車を発進させることが難しくなってしまいます。

さらに言えば、私たち人間は脳からの命令で生命活動をしています。

つまり、脳という統合機関が存在しなければ、私たちは単なる肉の塊であり、人間の姿かたちをしているだけの俗に言う「植物人間」と同じなのです。

 

では、結論に戻ります。

医療からこれ以上の医療行為は現代医療ではできないと見放された人たちがターミナル期患者だとすれば、

その人たちは、「この後、一体どのように生きていけばいいのだろうか?」と路頭に迷うのは当然ではないでしょうか?

 

目的や目標を決めずに生きてきた人に対して、あなたはどのようにその末期患者の人生に意味を見出してあげることができますか?

病気になることは誰でもあります。

しかし、闘病しようとするその意欲は、「回復したい」というモチベーションがあるからではないでしょうか?

その回復したいという回復過程の手助けをするのが医療であるとすれば、その医療から「助かる見込みはありません」と宣告されたらどう感じるでしょうか?

普通なら、他に助かる方法があるかもしれないと代替医療を探し回るかもしれません。

または、とにかく痛みや苦痛を取り除いて欲しいから、合法的に麻薬で疼痛管理してほしいと、自宅で過ごすのでなく、緩和病棟に入院してくるかもしれない。

(自宅で痛み止めと言いながら、きつい麻薬をやると、警察に逮捕されてしまいますからね。)

本来なら、「何か救いの道があるかもしれない」と考え、病院に入院することなく助かる方法を模索するのです。

しかし、緩和ケア病棟などに入院している人たちは、それすら放棄してしまっているのです。

自宅で生活することができない、家族も見守ってくれない、生活の世話をしてくれないのではないでしょうか?

さらに、自分から救いを求めず、最後の最後まで「医療神話」にすがって「とにかく痛みだけでも」とオピオイド鎮痛薬を使ってもらい、麻薬漬けになって鎮痛の副作用と、管理された生活の中で人生の最期を迎えようとしているのではないでしょうか?

 

つまり、ターミナル期にある患者のほとんどが、口には出さないけども、「絶望」の淵に立たされているのかもしれません。

絶望すれば、人間は無気力になります。

生きる希望がないのですから。

何を食べても美味しくない、何を見ても楽しくない。

過ぎた時間は取り戻せないのです。

そういった絶望した人間模様を見せてもらうのが「ターミナル期看護」なのです。

一見平静を装っていても、「人生、これで良かったか?」と心は苦しみながら、死んで行く人を見送るのです。

 

そこで学生は感じるでしょう。

「もっと一生懸命生きなければいけない」と。

しかし、「どういう目的を持っていきなければいけない」

とまでは誰も教えててくれません。

看護学生であれば、「立派な看護師になって、病気で苦しむ人を助けたい」のが目的になるのですが、

本当に「立派な看護師になって、病気で苦しむ人を助けたい」という目的が人生の目的として正しいのなら、どうして看護師を志す人たちが多くいるのに、看護師をしている人たちが幸せそうに生き生きと働いている人が少ないのでしょうか?

自分の人生を投げ打ってでも「病気で苦しみ人の力になりたい」という人生を全うしようとする看護師がいないのでしょうか?

贅沢をする、地位や権力、巨万の富を得ても、目的を持たずただ、それらの物を得ても、心は一時的にしか満たされません。

看護師だけでなく、世の中で働く人たちは

「生活の安定のためだけに、人から褒めてもらうために、人から尊敬してもらう、一目置いてもらうために」

必死に生きているだけかもしれません。

しかし人生には安定はないのは真理なのです。

いくら巨万の富を得ても、医者や弁護士の資格を取得したとしても、死んでしまったらそれらの物はあの世には持って行けないのです。

「巨万の富を得る事や、看護師免許や医師免許、弁護士免許を取得すれば幸せになれる」と信じ、必死に努力して、嫌々苦痛を我慢してやっとの思いで手に入れても、死ねば全てなくなるし、その後もさらに苦痛は続くのです。

意味が分かりますか?

利己的な欲望を満たすために必死に努力しても、死という不確定なものが訪れれば、結果は報われることはないということです。

つまり、利己的な欲望を満たすために努力するのでなく、それらを努力する過程にこそ「喜び」や「幸せ」「成長」を感じながら日々生きることの方が重要であり、「幸せな生き方」なのです。

人間が他の動物と違って、「食べたり寝たり、排泄したりするだけでは幸せではない、本当に人間として幸せな人生の送り方がある」という人生の取扱説明書についてはこちらの記事をご覧ください。

RAPT有料記事362(2019年3月30日)サタンに勝利する術を身につけた者こそ、永遠の幸せを手に入れた者だ。

RAPT有料記事301(2018年8月11日)仕事の中にこそ恵みがあり、幸せがあり、喜びがあり、生き甲斐があると悟りなさい。

RAPT有料記事194(2017年7月31日)人は自力では幸せにはなれない。主の祝福を受けてこそ幸せになれる。

RAPT有料記事159(2017年4月1日)天国に入って永遠に幸せに生きるために、我々は地上でどんな人生を生きるべきか。

欲望を満たすことではなく、心の平安こそが真の幸せである。

 

「人間はどのように生きれば幸せな生き方なのか?」

についての問いは、ターミナル期の患者を看取っても、ましてや死にゆく人を見ても何も分からりません。

ただ、人が死んでいく現実を見て、「私は死にたくない!」「死ぬ前にやっておきたリストを書こう!」と思うくらいではないでしょうか?

私も以前はこのような事をやりました。

しかし、これらのことを仮に達成したとしても「全く幸せにはならない」のです。

何故だかわかりますか?

「自分の欲望を叶えるだけ」のために生きても、それらの欲望は人間一人の力だけでは全て叶えることができないからです。

「世界一周旅行がしたい」

世界一周旅行したとします。その後、あなたは何をしますか??

金と時間と体力があれば、できるでしょう。

で、その後の人生をどのように生きますか?

また、新たな欲望を見つけなくてはなりません。

新たな目標を見つけなくてはいけません。

 

確かに芸能人やセレブや有名人が、世界一周旅行や豪勢な生活をして、一見優雅に幸せそうに生きているように見えます。

しかし、実態はどうでしょうか?

彼らの人生は、行き過ぎた欲望や、薬物汚染、不倫、離婚など、無茶苦茶ではないでしょうか?

そんなテレビに出ているような金持ちや、地位や名誉を守るためだけに、日夜寝ずに働く政治家や社長、経営者の束の間の贅沢や豪遊を見て、あなたは本当に幸せだと思えますか?

人生に倦みつかれてしまうのです。

そして、時間だけが経過し、年老いてしまうのがオチではないでしょうか?

 

『ターミナル期におけるトータルペインが理解できない理由』とは、このように、人間は動物と違って、ただ食べたり飲んだりできれば幸せではないからです。

では動物と人間との違いとは何でしょうか?

「発達した脳」です。

なぜ、人間だけが

「発達した脳」を与えられたのでしょうか?

それは人間に「言葉」を与えて、この世の中、世界が「言葉から成るもの」であると知らしめるためではないでしょうか?

つまり、言葉という目に見えない音を、具体的に文字にしたりイメージすることができるような「高度に発達した脳」を人間にだけ与えたのです。

人間は「言葉」によって、目に見えないものをイメージしたり具体化できます。

つまり、目に見えないものの存在を確かなものにすることができるのです。

目に見えるものや5感で認識できるものだけを追い求めるのが人間以外の動物です。

しかし人間は5感以上の目に見えないが存在している、電磁波、電流などを第6感によって感じることができるように、脳を発達させて言葉や高度な思考を与えられたのかもしれません。

(脳についてさらに詳しく知りたい方はこちらの記事をどうぞ↓)

RAPT有料記事205(2017年9月9日)人間の脳は体を動かすエンジンだから、脳の回転を高めてこそ価値ある人間と見なされる。

 RAPT有料記事71 (2016年5月28日)頭脳の次元を上げてこそ、人生はさらに充実する。

 最大のうつ病対策は脳の回転を速くする努力をすること。

 

私たちは脳を使わず、ただマスコミから流される情報を見て、欲望に駆り立てられ、それらを満たすためだけに生きる人生を生きたり、ただ一時的な快楽享楽に溺れて生きるだけなら、人生の最期に

「自分は一体なぜ人間として生まれてきたのかな?」

「本当はもっと大きなことを成し遂げる事ができたのではないかな?」

「どうせ死ぬなら、本当に自分が好きな事だけして生きれる人生を目指せばよかったな」

「給料もらうためだけに、わずかな給料で贅沢するためだけに生きてきたけど、会社に時間泥棒された人生だったなぁ。」

などと思い悩むはずです。

過ぎた時間は取り戻せないのです。

そして、ターミナル期の患者はそういった絶望感を抱えながら、肉体の痛みと生活する人たちのことです。

宗教を持たない、真理を持たない看護にできるのは、痛みの緩和と身体的安楽を提供することだけなのです。

宗教を学ばない看護における全人的理解とは一体何なのでしょうか?

 

死にゆく人をみても、最終的には「自分には関係ない」「自分は死にたくない」しか感じないでしょうね。

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