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「普通の日本人」はとにかく正義が嫌いらしい

痴漢容疑者を取り押さえようとして重傷を負わされた被害者を嘲笑する人々

2月17日、都営地下鉄駅で、痴漢容疑者を取り押さえようとした男性が階段下に転落させられ、一時意識不明の重体になるという事件が起こった。

www.sankei.com

 駅構内の階段で男性を転落させ、意識不明の重体にしたとして、警視庁神田署は17日、傷害容疑で、元警視庁警護課SP(セキュリティーポリス)の会社員、品田真男容疑者(52)=千葉市若葉区原町=を現行犯逮捕した。品田容疑者は当時、電車内で10代少女への痴漢行為を疑われ駅構内を逃走していたという。(略)

 逮捕容疑は17日午前7時ごろ、東京都千代田区神田神保町の都営新宿線神保町駅構内の階段で、自身を捕まえようとした20代男性を階段下に転落させ、頭蓋骨骨折などのけがを負わせて意識不明の重体にしたとしている。

重傷を負わされたこの男性にはお気の毒としか言いようがない。一日も早い回復を願うばかりだが、驚いたことに、この男性のお連れ合いがTwitterに状況報告のツイートをしたところ、誹謗中傷が殺到し、ついに彼女はアカウントに鍵をかけざるを得なくなった。

実際こんなツイートが。。(ほんの一例)

さらに、こんなこと↓をお連れ合い本人に向かって言えるとは、どういう神経をしているのだろうか。

危険を省みず容疑者に立ち向かった男性が「正義マン」?

ここで気になるのが、この男性を嘲笑するのに「正義マン」という言葉が使われていることだ。

もともと「正義マン」とは、例えば昨年10月からの消費税増税で、購入した食品を持ち帰る場合は軽減税率の8%、しかし店内で食べるなら10%というルールが導入された結果、店内で食べると言わずに購入した食品を店内で食べている客を「イートイン脱税」だとして店員にチクる迷惑な人々などを揶揄する言葉として使われていた表現だ。

この例で言えば、そもそもコンビニのように購入した食品を持ち帰ることも店内で食べることもできる業態の店が街にあふれている中で、持ち帰るか食べるかでいちいち税率を変えるなどという馬鹿げたルールが混乱を招いているのであって、頼まれてもいないのにそんな謎ルールへの「違反」を監視して「摘発」する、独りよがりな「正義」の押し付けが笑われていたのだ。

その同じ言葉が、逃げる痴漢容疑者(元SPだというのだから格闘のプロ)に立ち向かって不幸にも重傷を負った被害者に浴びせられている。

さらに、この人だけでなく、2018年に起きた新幹線車内殺傷事件の被害者男性も「正義マン」呼ばわりされていたという。

「普通の日本人」は正義が嫌いになるよう教育されている

こうした勇気ある被害者を「正義マン」呼ばわりしているアカウントの中身を見に行くと、聞かれれば「右でも左でもない普通の日本人」だと答えそうな人が多い。

彼らは、なぜこうした被害者が嫌いなのだろうか。

「イートイン脱税」の例が示しているように、本来の意味での「正義マン」とは、もともと理不尽な「村の掟」レベルのルールや、独りよがりな「俺様ルール」を強引に押し付ける人間のことだ。彼らが無理強いするものが実際には正義などではないからこそ、「正義マン」と揶揄されているのだ。

そんなはた迷惑な人たちと、危機的な状況の中、危険を省みず正しいと信じる行動をとった勇気ある人々を同一視してしまうのはなぜなのか。彼らには、「村の掟」レベルの理不尽なルールと普遍的正義の区別がついていないのではないか。

考えてみれば、この国には、正しかろうが正しくなかろうがとにかく決められたことに従え、と押し付けられるルールが多すぎる。典型的なのが、生まれつき茶髪の生徒の髪を黒く染めさせたり天然パーマの女生徒に直毛パーマを強制する校則などだろう。

その上、例えば「星野君の二塁打」のように、自ら考えて正しいと思える行動を取るのでなく、上位者の言うことに黙って従え、という奴隷の思想が「道徳教育」と称して注入されている。

president.jp

教育行政に詳しい寺脇研氏は「この教材は、作者の意図と異なり、『守るべき規範』を押し付けるものになっている」と指摘する――。

(略)

 ある教科書を見ると、この「星野君の二塁打」というタイトルの横には「チームの一員として」というキャッチが添えられており、さらに上部には「よりよい学校生活、集団生活の充実」という表記がある。

 これは、学習指導要領に掲げられた小学校高学年用の項目名そのもので、その指導内容である「先生や学校の人々を敬愛し、みんなで協力し合ってよりよい学級や学校をつくるとともに、様々な集団の中での自分の役割を自覚して集団生活の充実に努めること」を教えるために、この「星野君の二塁打」の話を入れましたよ、ということをわざわざ念押ししているのだ。

 これを前提に子どもたちに議論させたならば、どういうことが起きるか。「星野君は間違った。悪いことをした」「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」という意見が圧倒的に多くなるのは明らかだ。

こんな教育を受けて育てば、表面的には押し付けられるルールにおとなしく従いながらも、そんなルールを憎むようになるのは当然だろう。しかも、何が正しいことなのかを自分で考えないように仕向けられているのだから、理不尽な「村の掟」と正義の区別もつかなくなる。

その結果が、自ら信じる正義に従って行動した人々への憎悪なのではないか。さらには、ルールがどうこうではなく何が正しいことかを自ら考え行動するという、自分にはできないことができる相手への嫉妬もあるだろう。

何かというと「正義の暴走ガー」とか言いたがる連中が湧いてくる現象も同根なのではないか。権威主義的なこの国の教育が、正義を憎悪する「普通の日本人」を量産しているのだ。

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