新潟県立大学の袴田 茂樹教授が
~神聖な元日の雰囲気を残したい~と題して、
 
コラムを書かれています。
 
“間もなくお正月だが、以前は年末と少なくとも
三が日は役所だけでなく、
 
たいていの仕事や商売も休業日だった。
1月2日の初荷は飾りや旗を立てた儀式的なもの、
 
年始の挨拶も、儀礼であり実務の話や
交渉する日ではなかった。
 
最近は元日からコンビニやスーパーだけでなく、
一部デパートも開店しているが、
 
私の世代の感覚からすると、

なにか聖なる日に対する

冒瀆のような感じがする。”

 
という書きだしのものです。
 
私も同感で、当時の様子を思い出して、
書いてみようと思ったわけです。
 
振り返れば、
いろんな正月を過ごしたなぁ~。
 
大晦日まで仕事をしていて、元旦の早朝に
会社に行き、淡々と作業をしていたことも。
 
なつかしく思い出されます。
 
例年は、新潟の実家に帰省するか、
仲間とスキーに行って民宿で年を越すのが
つねでしたが、
 
たまたま、予定なく都会の片隅の独身寮で
ポツネンと過ごすこともありました。
 
そんな年末年始の食料事情は最悪だったのも、

今はそんなこともあったな

と懐かしく思い出されます。

 
袴田教授のように、
宗教性、自然に対する細やかな美意識、
政治哲学や宗教哲学を持ち出さなくても、
 
子どもの頃ほどではないが、
 
大掃除、お年玉、おせち料理、お雑煮、
凧揚げ、羽根つき、福笑いなどの言葉が並ぶと、
 
非日常感からか、ワクワク、ウキウキ
としたものを感じます。
 
袴田教授は、
“元日は特別に厳粛かつ清澄な日で、
人の心も日常の生活も一新される日だった。”
 
と表現されていますが、
 
私も同様の感慨を持って、「心新たに」
新年を迎えようと思っています。
 
皆様もよいお年をお迎えくださいますよう!
             駿介

 

いずれにしても人は言葉で生きています。
 
発する言葉には、言質をとるなどと言うように
責任がつきまといますが、
 
言葉として発しなくても心の中で思ったことを
口にしないことにも責任が生じます。
 
大概の場合は、母国語で考え話します。
 
そして、知識・スキル・思考として蓄えて、
経験として未来の選択の指針とするわけです。
 
言霊という言い方もありますが、
 
言葉の持つ力は、想像以上に大きなものが
あります。
 
たとえ、目の前の相手を喜ばすためであっても、
 
その場限りの言葉はその人の信用・信頼を
減少させることは言うまでもありません。
 
また、心の中で強く感じた違和感を、
 
口にしないというのもいじめの原因にも
なりかねず、相手に軽んじられてしまいます。
 
どこを輪切りにしても、
どの瞬間もごまかさず、最善・最高の生き方。
 
いつ終わっても悔いのない。
また同じ場面に出くわしても、
 
まったく同じ言動をする自信をもって生きたい
と思っています。
              駿介
 

 

人間の営みの本質的なものは、
 
「愛すること」、「愛を受け入れること」に
集約されると思っています。
 

お金を稼ぐことも、

努力をして名声を手にすることも。

 
戦争や地域紛争さえも、
愛する人たちを守るためという大儀名分が
成り立ちます。
 

この世で一番時間の無駄で、

不幸せへのスパイラルは、

「愛されているか検証しようと思うこと」です。
 
人間の心は、球体に近い多面体のようなもの。
 
その面積に個人差や環境・状況の差はあっても、
やましい心や邪まな考えは誰の中にも存在します。
 
もし、存在しなければそれらを認知することが
できませんから。
 
未来や他者を疑い出せば、
不都合や不具合を探り当てフォーカスし、
 
やはり、完全に愛されてはいないのだという
結論に至ります。
 
多国や他者との距離感は不思議なものです。
物理的にという意味でなく。
 

とはいえ、不思議なようで、

その距離感ができるのに

往々にして理由があります。
 
「愛すれば距離は近くなる。
憎悪や嫉妬を抱けば距離は遠ざかる。
 
大切な人との距離は自分の心のありようが
決めている」と言った人がいます。
 
潜在意識活用の世界的権威である、

ジョゼフ・マーフィー博士は、

こんなことを言っています。

 
“相手への愛はあなた方を結び付け、
その関係を深く強固なものにするでしょう。
 
しかし、憎悪や嫉妬、利己的な考えは、
あなた方の間に大きな溝を生み出し、
 
あなた方の距離を途方もないほど遠ざけて
しまうでしょう。”
 
私たちにできることは、
いつもでも「愛させる」ことではなく、
 
「愛すること」だけ。
                 駿介

 

今朝きたメルマガにこんなものがありました。
 

『致知』2019年1月号

 特集「国家百年の計」の中に、

 

《日本の教育をミスリードする2つの罠》

と題して、

 
野口 芳宏(授業道場 野口塾主宰)
           ×
占部 賢志(中村学園大学教授)
の対談が上記に掲載されるというものです。
 
そのまとめのキーワードには、
 
・国家あっての国民という意識を一刻も早く
回復しなければいけない。
 
・皆でいい国家を築き上げていこうという
思いは教育の根幹。
 
と記されています。
 
“正月早々、勘弁してよ”と強い違和感を
感じました。
 
罠の一つとしてあげているのが、いわゆる、

「ウォー・ギルト・インフォメーション

・プログラム」

WGIPです。
 
(戦争についての罪悪感を日本人の心に
植えつけるための宣伝計画)
 
“アメリカは日本に仕返しをする、いじめる
という方法でなく、表向きは日本を大事にする
 
という姿勢を見せながら、反感を抱かせぬように
少しずつ蝕んでいった。
 
日本人を根無し草にするという作戦を見事に
成功させたんです。
 
日教組だけでなく文科省までも篭絡されて
いったのはまず、間違いないでしょう。”
 
もう一つの罠は、欧米からの新自由主義の
流れも大きく影響するようになりましたね。”
 

“つまり、

教育に市場競争の原理を持ち込んだんです。

それが成果を挙げることもあるわけですが、
 
逆な場合は無残な状態を招きます。”
 
“日本は20世紀末から21世紀にかけて、
それを無批判に取り入れてきました。”
 
“私たちは皆、国家に守られているわけですが、
アメリカの政策によって尊敬する国家を蔑ろにし、
 
愛国心という言葉を口にするだけで、
ファッショと言われるようになってしまった。”
 
という流れから結びの言葉になるわけです。
 
1274年と1281年にわが国は初めて近隣諸国から
侵略されました。
 
元寇すなわち蒙古襲来です。
平安朝から鎌倉幕府創立の時期で武士の勢力が
 
確立していたのが幸いし、軍事力によって
蒙古軍を退けることができました。
 
そこから、第二次世界大戦で敗れるまで、
日清、日露、第一次世界大戦と外国との
 
戦争は負け知らずでしたね。
 
政治の世界では、最近は経済の世界でも、
「タカ派」、「ハト派」という言葉が聞かれます。
 
タカ派:

強硬派のことを差し、

目的のためには武力の行使も

辞さないという考え方の人たちのこと。
 
ハト派:

穏健派のことを差し、

話し合いで解決しようとする

考え方の人たち。
 
教育界をリードするお二人の「新春対談」が
数100年前と変わらぬ結論というのは、
 
心底“ガッカリ”です。
 
本来、教育に一番大切なのは、
 
ソフトバンクホークス球団会長の
王貞治さんの言葉を借りて少し書きます。
 
「この年になったら、欲しいモノなんて、
もう何もないんだよ。ただ、これだけは大事
 
だと思っていることがひとつだけあるんだ。
“人のために何ができるか”ってこと。
 
これまで僕は本当に多くの人に支えられて
生きてきた。
 
これからは“恩返し”しなきゃってね。」
だから、頼まれたら嫌と言わない。
 
「僕でよければお手伝いさせていただきます」
を信条にしている。
 
こちらの方が教育の原点だと思うのですが、、、。
               駿介

 

~War is over .if you want it.~
からタイトルを決めました。
 
心の底で決めて、心から望めば叶う。
素敵な言葉と思ったわけです。
 
昨日も書きましたが、
 

この時期は、

「私たちは次代をどんな色にするか?」

「未来をどんな言葉で紡いでいくか?」
 
を考えるのによい機会だなと思っています。
 
米国のヒューマンポテンシャル・ムーブメント
から始まった、「ライフ・スプリングス」という
 

自己啓発セミナーの創始者、

ロバート・ホワイトは、

 
『人間は昆虫と逆に、チョウとして生まれ、
さなぎとなる。』と言っています。
 
生まれたばかりの赤ちゃんの純真無垢さ、
周りの皆を引きつけて離さない
 
パワフルなエネルギー。
 
しかし、いつしか人間として生きていくために
人を疑うことを学び、保身や恐怖を学び、
 
必要に迫られ、貨幣に支配され、
しだいに硬い殻の中に閉じこもっていく。
 
と言いたかったのだと思います。
 
仕方のないことという一面もありますが、
 
稲盛和夫氏は、

『この世に何をしにかたか?』

 という本質的な問いに、

 
「心を高めること」、「魂を磨く」
 
『生まれたときより、少しでもましな人間になる、
すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂を持って
死んでいくためだ』
 
という答えを用意されています。
 
すごく納得できます。
 
たまたま入った公衆トイレを入ったときよりも
綺麗にして出る。
 
大自然の摂理の必然で生を受けたこの世を、
自分が生まれる前より少しでもましなものにして、
 
生を終えたいと心から望み、願い、祈ります。
                駿介

 

今日はクリスマス・イブですね。
 
今年も残すところ、1週間。
平成も最後の年ということもあり、
 
普段よりも大きなものに、より遠くに
思いを馳せるのには最適なような気がします。
 
タイトルは、
ジョン・レノンの♪ ハッピー・クリスマス 
(戦争は終わった)/Happy Xmas(War Is Over)
 
から採りました。
 

ジョン・レノンの『イマジン』は

大好きな楽曲ですが、

 

この『ハッピー・クリスマス』は、
 
今日、初めて知りました。
 
“そう、これがクリスマス
君がしたいことは何かな?
 
一年が終わって
新たな年が始まるんだ
 
そう、これがクリスマス
君は楽しんでるかい
 
近しい人も、親しい人も
お年寄りも、若い人も
 
すべての人にハッピー・メリークリスマス
そして、ハッピー・ニュー・イヤー
 
良い年になりますように
恐怖なんかなく
 
そう、これがクリスマス
弱い人、強い人
 
お金持ち、貧しい人も
世界に間違いは多い
 
そう、これがクリスマス
黒人、白人
 
黄色、赤色人種も
戦い(fight)をやめにしよう
 
すべての人にハッピー・メリークリスマス
そして、ハッピー・ニュー・イヤー
 
良い年になりますように
恐怖なんかなく
 
War is over.if you want it.
War is over now.
 
戦争はおわる、もし君が望むなら
戦争は終わるんだ
 
War is over.if you want it.
War is over now.
 
戦争はおわる、もし君が望むなら
戦争は終わるんだ
 
ハッピー・クリスマス”
 
戦争は終わったという表記はされていますが、
実際にはこの曲は、
 
1971年 ベトナム戦争の最中ジョンが
作り歌った反戦歌です。
 
「自分以外の他者の幸せを祈る気持ちが
連鎖していけば、憎悪による“戦争の鎖”が
 
断ちきれるのでは、と思って書き上げました」
 
と語るのは、9.11の直後に
 ハナミズキ ♪を衝撃的な映像を見て
約20分で歌詞を書いたという一青 窈さんです。
 
同じにおいを感じます。
           駿介

 

有史以来、永遠のテーマということも
できるかも知れません。
 
特に、貨幣が人間の上に君臨し始めてからは、
「人間の精神」は頽廃の一途です。
 
中途半端に平和な社会では、
 
より多くの貨幣を手にすることがあたかも
正義であるかのように。
 
世間一般と言われる強力で大洪水ような
どうしたら自分だけが得をするかの情報の氾濫。
 
“マルクスは,まず出発点に社会改革と創造がある。
人間はつねにその結果である”とした。
 
“はじめに生産諸関係の改革が
すすめられなければならなかった。
 
協同組合的生産と「労働証書制」にもとづく
新しい経済秩序の創造、
 

このことをとおして

資本と賃労働の分裂は克服され、

労働力商品は止揚される。
 
この改革を確実にしていくのが、
政治的には「プロレタリアート独裁」として
 
つくりだされる、過度期社会の政治秩序である。
このような新しい社会秩序の創造が、
 
結果として人間を解放していくのである。
すでに述べたように、マルクスは将来人間が
 

完全に解放される日がくることを予定していた。

 

それは「能力に応じて働き、

必要に応じて受け取る」

 
社会の出現によってである。
もっとも、このような社会が生まれたときは、
 
もはや秩序は必要ではないかもしれない。
 
能力に応じて働き、
必要に応じて受け取るだけの社会なら、
 
もはや経済価値の秩序も法則的秩序も
必要ではないだろう。
 
さらにそのような社会では、
 
マルクスが述べているように、
国家秩序なども消え去っていることだろう。
 
自由に働き、自由に生活するだけの社会が、
ここではつくられているはずなのである。
 
といっても、それを実現するプロセスにおいては、

マルクスにとっては、

やはり秩序が必要なのである。

 
社会が経済的にも政治的にも秩序だった発展を
とげた結果、
 
経済的秩序も政治的秩序も
必要でない社会が生まれてくる。
 
生産力は恐ろしいほどに増加し、
 
誰もが必要なものをいくらでも受け取れる
ようになった結果、もはや国家が必要なくなり、
 
人間たちは誰もが精神労働と肉体労働を
共有するようになり、人間は解放されるのである。”
 
と『貨幣の思想史』 内山 節(たかし)著
~お金について考えた人々~
 
から、P192 ~P193を抜粋で引用しました。
 
理論的には、みんなが“幸せ”になることは
可能なのであります。
 

しかし、

カルロス・ゴーン前会長・容疑者のような人間と

それを羨望の眼差しで見る多くの人たちが
 
存在することがそれを不可能にしています。
 
社会のニーズというか、

これを実現したら、

 

世間から賞賛を受けられるようなこと、

 
それを自分の心の奥底で本当に望んで

いることか

素直に真摯に見つめ直す必要があります。

 
そして、多くの人々が「人間の精神」を
取り戻さなれればとならないと思っています。
 

まずは、

自分自身がということは間違いないですが、、、。

                  駿介

 

“人生はそれほど長いものではない。
夕方に死が訪れても何の不思議もない。
 
だから、わたしたちが何かをなすチャンスは、
いつも今この瞬間しかないのだ。
 
そして、その限られた時間の中で何かをなす以上、

何かから離れたり、

何かをきっぱり捨てなくてはならない。

 

しかし、

何を捨てようかと悩んだりする必要はない。

懸命に行動しているうちに、
 
不必要なものは自然と自分から離れていくからだ。
あたかも、黄色くなった葉が樹木から
 
離れ去るかのようにだ。
 
そうしてわたしたちはさらに身軽になり、

目指す高みへと

ますます近づいていくことになるのだ。”

 
超訳『ニーチェの言葉』
~喜ばしき知識~ より。
 
久しぶりに開いた本の中の一節です。

何年経っても、

何度読んでもドキっとさせられます。

 
私は、いつ頃捨てたんだろうか。
 
自分だけが幸せになろうとすることを。
人生を自分の思い通りにしようとの思いを。
 
起こる事象がすべて大自然の摂理の思し召し。

と思ってしまえば、

何でも有りで、何でも来いです。

 

肩の力が抜けて、

自分の観念の“メガネ”を外して、

 

ものごとの真理が

素直に見えるような気がします。

                     駿介

 

最近は、自宅療養中ということもあり、
眠くなったたら、いつでも眠れるので、
 
午前零時を過ぎていて、
充分な睡眠が取れたなと思えれば、
 
新しい日が始まったとして、
起きてゴソゴソと何かを始めることにしています。
 
最初にやることは、体重と体温の測定です。
どちらもその日の体調の確認には欠かせません。
 
そして、
ヤクルトを飲んで、総合ビタミンのサプリ、
スパークユンケルを飲んで、
 
並行して、お茶用のお湯を沸かします。
この朝のルーティンはここ10年以上やっています。
 
ほかに、余裕があったらのルーティンが
数個あります。
 
上記をやりながら、
今日のTODOリストを作っていきます。
 

今日やるのがベストな項目、

やらなければならないこと。

やったら誰かが喜びそうなこと。
 
生まれ変わった、新たな一日の始まりです。
 
タイトルの「昨日の後始末」というのは、
特に昨日の行いの反省する時間を設けなくても、
 
起き掛けに気にかかることは脳裏に
浮かんできます。
 
それは、リストの優先順位の高い方に
位置づけられることが多いようです。
 
基本的に、
その日にやりたいことは特に楽しむことは
 
もう目覚めることがなくても悔いの残らぬよう、
 
明日以降をだいなしにせぬ程度にやってから
眠りにつくようにしています。
 
それでも、睡眠中の“脳”は昨日起こった
全てのことを検証するようです。
 
その瞬間にはベストと思って選択した
色んな事柄を一つ、一つ。
 
あれ!!っと思うことはかならずモヤモヤした
気分とともに浮かび上がってきます。
 
「昨日の後始末」といいながらも、
「明日への布石」ともいうことができます。
             駿介

 

大ベストセラーとなった芥川賞受賞作
『コンビニ人間』から2年。
 
作家、村田沙耶香さん(39)が新しい長編
『地球星人』(新潮社)を出した。
 
目の前の世界に強い疎外感を抱いたまま、
小学生から大人になる女性の苦しみと自由への
覚醒を鮮烈に描く。
 
「人間という“生き物”をもっと知りたい」
という尽きぬ欲望の結晶でもある。
 
以上、海老沢類氏解説。
 
『コンビニ人間』は、
コンビニの仕事という世界の正常な部品に
なることで、心の平静を得られた女性の
 
話しで、芥川賞にしては珍しく内容のある
作品として面白く読んだ記憶はまだ新しいです。
 
『地球星人』は、
主人公の奈月にとって、世界は人間を作る
(工場)に見える。
 
街には人間のつがいの(巣)が並び、
そこで生み育てられた子供が〈出荷〉されて
 
〈世界の道具〉になるのだ、と。
〈働く道具〉にも〈社会のための生殖器〉
 
にもなれず苦しむ奈月は、
理不尽な性被害を受けながらも、
 
祖父母が暮らす長野の山村・秋級(あきしな)に
帰省した歳に、いとこの由宇(ゆう)と交わした
 
〈なにがあってもいきのびること〉という
誓いを胸に生きる。
 
ただ、ネットで見つけた男性と結婚し「普通」
を演じても、生きづらさは一向に変わらない。
 
そんなある日、
夫婦で訪れた秋級で由宇と再開し
世間とは違う小さな共同体が生まれる。
 
自らを〈ポハピピンポボピア星人〉だと語る
奈月の「宇宙人の目」を借りて世界を観察し、
 
その様子を面白がるように淡々と写し取る。
奈月は世間の禁忌(タブー)を犯し、
 
常識から逸脱していく。
その言動は苛烈で痛々しいけれど、
 
ときに自由の輝きを放つ。
〈きちんと『妻』として勤めを果たしてくれないと〉
 

〈早く女の幸せを見つけてね〉・・・。

 

読んでいるうちに、

普通の人々のそんな言動のほうが、

 
歪で暴力的に感じられるような瞬間がある。
 
衝撃的なラストは狂気の光景か、それとも―。
どう受け止めるかは読み手に委ねられる。
 
コンビニでのアルバイトを昨年いっぱいで辞め、
専業作家となり、
 
〈体調もいいし、執筆もよく進む。
書きたいことはいっぱいある」と
笑みを見せながら、
 
「小説の言葉って、読んでいて身体の一部
になっていく感じがある。
 
そうして別の場所や世界に連れて行かれる。
 
私も、そんな別の自分に会いたくて
書き続けている気がします。」
 
と締め括っています。
 
今後も目の離せない、楽しみな作家の
お一人です。
               駿介