指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『天才激突 黒澤明VS勝新太郎』

2019年11月20日 | テレビ
BSの「アナザーストーリーズ」で、1979年の『影武者』撮影の際の、黒澤明と勝新太郎の衝突、勝の降板事件が、それぞれの側の人間によって証言された。

          

黒澤側は、スクリプターの野上照代、勝側は、弟子の谷崎弘一、両者から中立の立場として白井佳夫。
この事件について、黒澤の助監督であり、勝とは映画『王将』で監督したこともある堀川弘通は、「ビデオ事件は、勝は黒澤がどこまでやれば許してくれるか、試してみたが、それに失敗した・・・」と黒澤明の評伝で書いている。
堀川の『王将』では、勝新太郎は「借りてきた猫のようで、非常に大人しく何のトラブルもおこさなかった」そうだ。

また、この番組で、野上は、「黒澤がテレビを見て、勝新太郎・若山富三郎兄弟が似ているので、これでヒントを得てシナリオを構想した」というのは間違いだ。
勝・若山兄弟で1本の映画をと考えたのは、東宝である。
なぜなら、1970年代当初、東宝で最大の娯楽作品は、若山の『子連れ狼』と勝の『座頭市』だったのだから、会社としては当然である。

また、勝がメークの資料を求められ大量のスチール写真を送りつけてきたころから、黒澤が不快感を持ったというのも違い、その前にあった。
映画化が決まって、黒澤と勝、さらに主要スタッフはロケ・ハンに各地に出た。
そして、夜は当然に宴会になる。
その時、勝は当意即妙の話術で場を多様に盛り上げる。
だが、黒澤は、昔の自慢話だけで、次第に宴席は、勝新太郎中心になっていって、黒澤は非常に不愉快になっていた。
また、出自の違いも大きかった。勝は、長唄の杵屋家の御曹司で、酒席はお手のものだった。
だが、黒澤の父黒澤勇は、下級軍人から退職して日本体育会の理事になったが、大正3年には首になり、家はどん底になった。
要は、貧乏でまじめな軍人の家だったのだ。
この辺のことは、拙著『黒澤明の十字架』(現代企画室)をお読みいただきたい。

さらに、この時期、1965年の『赤ひげ』で、東宝と手を切った黒澤は、自分のプロでの『暴走機関車』『トラ・トラ・トラ』とアメリカ進出に失敗し、自分の家を抵当に入れて作った『どですかでん』は、大赤字で、『野良犬』の原作の権利を松竹に売るまでになっていた。ここも堀川の本に出てくる。
一方、勝新太郎は、大映は潰れたが、勝プロでテレビや映画を作っていて、特にアジアで大人気だった。
こうした二人の状況の差が、事件を生んだと言えるのだろう。

勝は、黒澤の力を過信していたし、黒澤は勝の演技、フランスのヌーベルバーグ、ゴダールのような即興演出に興味を持っていた新時代の役者であることをまったく理解していなかった。
勝新太郎は、映画界に入る前、「吾妻歌舞伎」で渡米したとき、ハリウッドでジェームス・ディーンに会い、彼の自然な演技に感銘を受けていたのだ。
そうした成果は、森一生監督の『続・次郎長富士』の、森の石松が、アンジェイ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のチブルスキーの死を模倣した勝の演技に出ていたのだから。

だが、これでもし、勝新太郎主演で『影武者』が公開されていたら、欧米の映画人にも勝新太郎を評価する監督や会社が出てきただろうと思うと残念である。アジアや第三世界では、勝の『座頭市』は大ヒットしていたのだから。
黒木和雄の『キューバの恋人』では、座頭市の真似をするパレードの男がいる。
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