元台湾在住サラリーマンの徒然なる日々

かつて台湾に数年間住んでいた日本人サラリーマンが綴る雑食系台湾ブログ。ご連絡はTwitter(https://twitter.com/superflyer2015)経由でお願いします。

なぜ「恋愛」は昔よりも困難になったのか? アラサー女子の苦悩。

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最近親戚の女の子が28歳になりました。

 

アラサー女子の苦悩


彼女は新卒で東京の企業に総合職として入社し、日々バリバリ働いている典型的なキャリアウーマン。学生時代にはアメリカの大学に1年間留学し、英語を流暢に使いこなします。現在でも海外出張が年に数回あり、会社からは将来の幹部候補として期待されているようです。

 

そんな彼女には、普段仕事関係の人には決して話さない一つの「夢」があります。

 

それは、「温かい家庭を築くこと」。

 

学生時代、彼女は好きなアーティストのライブに行ったり、友達とカフェでおしゃべりしたりするのを楽しむごくごく普通の女の子であり、特にやりたいことがないというか、「就きたい職」がなかったのです。ただ、漠然と、「将来ごく普通に恋愛をして、結婚をして、子供を産み、ごく普通のママとして日常を生きる」ことになるのだろうというビジョンを持っていました。

 

彼女の父親はごく一般的な会社員、母親は専業主婦であり、経済的にはごくごく一般的な家庭で育ちました。今日に至るまで、特別苦労することもなく、ごく普通に生きてきたのです。

 

就職に関しては、リクルーターであった先輩に流されるまま現在の会社に決めました。特に仕事が楽しいわけでも苦しいわけでもなく、普通に働いていれば毎月給料が振り込まれ、何か欲しいものがあれば普通に買えますし、特に努力をせずとも銀行口座の残高は少しずつ増えていっています。

 

そんな彼女なのですが、最近夢が叶わないことに焦りを感じています。そうです、「家庭を築く」ために必要な恋人がいないのです。

 

彼女は平均以上の身長に平均以上の顔、平均以上の学歴職歴に平均以上の収入と貯金を持っています。過去には普通に彼氏もいました。しかしながら現在は恋人がおらず、世間一般から「アラサー」などと呼ばれる年齢になってしまったことに焦りを感じているのです。

 

そんな彼女と最近話していて感じたのですが、よく言われるような「スペック」がどうこうという話ではなく、昔に比べて、そもそも恋愛自体が難しい時代になったのだなと私は感じました。

 

彼女が言うには、「出会いの機会なんていくらでもある」、「でも、誰がベストな相手なのかわからない」、「男の人たちもあまり特定の一人を見ようとはしていないように思える」とのこと。

 

あ〜なるほど、と思いました。

 

多分、現代人にとっては「候補」が多過ぎるのです。

 

多過ぎる「恋人候補」


20年ほど前までは、インターネットなどというものは実質的にはないようなもので、我々は良くも悪くも「ローカルコミュニティ」の中で暮らしていました。同じ学校や会社、地域等、ある程度狭い世界で生きていたのです。遠方にいる人と頻繁に接触することができるような環境は存在しませんでした。ですから、恋愛においては、その限られたコミュニティの中で恋人候補を探す必要がありましたし、そういった「候補」とのコミュニケーションも比較的濃いものであるケースが多く、関係が進展するのも比較的早かったのです。

 

それが現代ではどうでしょう。我々はインターネット経由、特にSNS等を経由して世界中の人たちと容易に接触できるようになったのです。

 

ネットで航空券やホテルを予約し、世界中のどこにでもいとも簡単に行ける時代です。ただまあ、そこまで話を広げなくても、例えば、自分が住んでいる都道府県在住の同世代の異性に絞って接触を図ったり、様々なカテゴリー分けがなされた婚活パーティー、街コン、オフ会などなど、実に様々な出会いのためのチャンネルが存在しています。「出会う」こと自体があまりにも容易な時代になったのです。

 

そんなわけで、恋愛に関しては最高の環境が整っている、、、ように一見思えるわけですが、実際にはこれが悪の元凶というか、この極めて高い自由度のせいで皆迷子になってしまっているように私には思えるのです。

 

リアルな話として、恋愛においては時に「限られた選択肢の中から選ぶ」ことが必要になります。漫画やアニメの主人公、ムービースターのような人間など現実にはそうそういないわけで、どんな人にも必ず「足りない部分」があります。ですから、我々は相手のそういった部分を受け入れられるかどうかを判断し、関係を進めていくことになるのです。これはある意味「妥協」ですが、限られた候補者から選ばざるを得ない環境下においては、それでも十分「ベスト」な選択肢になり得るのです。

 

しかしながら、兎にも角にも現代の世においてはほぼ無限とも言える数の候補者がいますから、妥協も何も、まず選ぶということ自体が難しいのだと思います。

 

私自身も、もしこんな時代で20代の時間を過ごすことになっていたら、、、なんて考えると、思い出に残る素敵な恋愛経験ができたかは極めて怪しいと思います。自分の性格を考えたら、「心の繋がり」を求めることを放棄し、雑な遊びだけの関係に終始してしまったのではないかなと。

 

やはり「比較対象」が極端に多い環境というのは、正直ちょっと嫌ですね。例えば、誰だって自分の容姿に関しては多かれ少なかれコンプレックスがあるかと思います。男であれば、「もう少しだけ身長が高かったら、、、」なんて思っている人は山ほどいるはずですし、女性にも色々あることでしょう。「寛容さ」がやたらと叫ばれる時代ではありますが、そういった「ちょっとだけ足りない部分」に関してはやたらと際立つ時代に思えてなりません。

 

わかりやすい例として、SNSの「プロフィール欄」があります。FacebookでもTwitterでもこれは必ず存在するわけで、もちろん適当に書いたり隠すことも可能ではあるわけですが、やはり「かなりシビアに審査されている」という印象があります。ある意味、各種スペックに関するフィルタリングを通過して初めて「人間性」を見てもらえるようになる時代、とも言えるのかもしれません。要は、「完璧」な候補者を求めることが理論的には可能になってしまったが故に、我々の若さには限りがあるにも関わらず、冗長で終わりの見えない候補者検索の長旅を我々は強いられてしまっているのです。

 

タイムリミット


そんなわけで、現代の世では、動物的な欲求やシンプルな感情でグイグイ突っ走ってしまう傾向の強い20代前半、もっと言えば学生時代くらいまでの恋愛の延長線上でゴールインできないと、その後はなかなか難しいのかもしれません。

 

昭和人間の私にとっては、「好き」や「愛しい」といった感情はもっと原始的なものであった気がしますが、何て言うか、現代人の恋愛というのは、そもそもそういった感情が源泉になっているわけではないように思えます。

 

「愛」という名の、数字では表現できずまたお金でも買えないものの価値が表向き軽視されているように見えて、実際のところ、皆がこれを求め彷徨っているのが現実。

 

「迷える子羊」は可愛らしいけれど、「子羊」なんて一般に呼ばれる時間というのは実に短いですからね、、、

 

吉井勇という人が作詞をし、1915年(大正4年)、つまり今から100年以上も前に発表された「ゴンドラの唄」という歌謡曲の冒頭にこんな歌詞があります。

 

いのち短し 恋せよ乙女