土田御前:母が信長より信勝を可愛がった理由

五瓜に唐花

土田御前は織田信長の生母です。

評判のよくない信長より、礼儀正しい信勝(信行)を可愛がり、織田家の当主にしようと望んだといいます。

土田御前とはどんな人だったのでしょうか。

PR

土田御前とは

 

名 前:不明
通称:土田御前(どたごぜん、つちだごぜん)、花屋夫人、大方殿
生 年:不明
没 年:文禄3年1月7日(1594年2月26日)
父:土田政久 
母:
子:信長、信行(のぶかつ)、秀孝、信包、市、犬

生まれ年は不明。

父は土田政久。土田氏は六角氏から別れた一族といわれます。
土田氏は美濃可児郡土田(どた)か尾張清洲の土田(つちだ)の豪族だといわれます。

政久は織田家に仕える武将でした。

天文元年(1532年)ごろ。織田信秀と結婚したようです。

信秀には正室として織田達勝の娘がいましたが、

天文3年5月(1534年)。長男・信長を出産。

天文5~6年ごろ。信勝を出産。

土田御前は夫・信秀、次男・信勝とともに古渡城(名古屋市中区橘)に移りました。
嫡男・信長は那古野城(名古屋市中区二の丸)で育てられました。

土田御前はてもとに残された信勝を育てます。

天文16年(1547年)。市を出産。

天文17年(1548年)。末森城(名古屋市千種区)が完成。信秀や信勝とともに移り住みました。

信秀の死後、信長と信勝が争う

天文19年(1550年)の前後。信長が16~18歳のころ。信長はお付きの者とともに見苦しい格好で町中を歩く姿が目撃されていました。それを見た人々は信長を「うつけ者」と噂しました。その噂は末森城で暮らす土田御前にも届きました。

それに対して信勝は行儀の良い子に育ち家臣の評判もよかったようです。土田御前は評判のよくない信長よりも、手元で育ち行儀の良い信勝を可愛がりました。

天文20年(1551年)ごろになると信秀が病気になり寝込むようになりました。信勝は信秀のかわりに領地の経営に関わるようになっていました。

天文21年(1552年)。織田信秀が死去。
万松寺で葬儀が行われました。この葬儀で信長は袴も着ず抹香を掴んで仏前に投げて帰っていきました。出席者は「あの大うつけが」と口々に言いました。
それに対して信勝は袴を着て礼儀正しい作法で行いました。

信秀の居城だった末森城は信勝のものになりました。土田御前は信勝と一緒に暮らしました。信勝のもとには柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門、林秀貞らの重臣が従っていました。

 

織田家の家督は信長が相続しましたが、領地の経営は信長と信勝か共同で行いました。やがて2人は織田家の主導権を巡って争うようになります。

土田御前が信勝を織田家の跡継ぎにしたいと考えても不思議ではありません。

天文23年(1554年)ごろ。信勝は弾正忠家の当主と名乗ります。

信長との対決は避けられなくなります。

弘治2年(1556年)8月。信勝と信長は戦いました。しかし信勝は敗北。末森城に立て籠もりました。信長は城下を焼き払い城近くに攻め寄せました。

このとき土田御前は清須から村井貞勝、島田秀満を呼び寄せました。彼らに謝罪の言葉を伝えれると信長への使者にしました。さすがに母の言葉に折れて信勝や末森城の者たちを許しました。信勝は柴田勝家らを従えて信長のもとに行き礼を言いました。土田御前も信勝について行きました。

 

その後、信勝は信長にあからさまに反抗することはなくなりましたが。

永禄元年(1558年)3月、信勝は竜泉寺を城に改造。織田信安といっしょになって信長に謀反を考えました。柴田勝家がこの企みを信長に伝えました。信長は病気のふりをして清州城の外に出なくなりました。

土田御前と柴田勝家は信勝に信長の見舞いに行くことを勧めました。しかし清州城に行った信勝は信長に殺害されてしまいます。

土田御前は信長の母なので罪には問われませんでした。

信勝(信行)の死後

 

信勝の死後は信長とともに暮らし信忠、信雄、信孝など信長の子の面倒をみました。

お市が織田家に戻ってきてからは茶々、初、江などお市の子の面倒をみました。

天正10年6月2日(1582年)。本能寺の変で信長が死亡した後は孫の信雄のもとで暮らしました。大方殿様と呼ばれて化粧料として640貫文(約1280石)を与えられていました。

天正18年(1590年)。豊臣秀吉により織田信雄が改易されます。その後、土田御前は伊勢国安濃津城の織田信包のもとで暮らしました。信包は土田御前が産んだ末の息子です。安濃津城15万石の城主になっていました。

文禄3年(1594年)正月7日。この地で死亡。

三重県津市の四天王寺に墓所があります。戒名は花屋寿栄禅尼。

土田御前は信長よりも信勝を可愛がりました。離れた場所で暮らし家臣に育てられた信長より、一緒に暮らして愛情をかけて育てた信勝が可愛いのは当然かも知れません。しかも信勝は評判が良くないのに呈して、信勝は身なりをきちんとして礼儀正しく育ちました。どちらかを当主にしなければ行けないのならら信勝を選ぶでしょう。しかしそのことが帰って信勝の野心を大きくしてしまったのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました