今回は、『菊と刀』第11章「修養」の内容の紹介です。アメリカ人は、自分の生涯において実現可能な目標を持った場合、その目標に応じた自己訓練を行います。その際、フットボールの選手として競技に参加するために厳格な規律を守ったり、音楽家になるための修行や事業に成功するために、一切の娯楽を断念したりしますが、自己修養そのものを人が身に着けるべき一個のカテゴリーと見なしていません(本書263-264頁・取意)。

本書では、自己訓練の達人が到達すると考えられている心境を言い表す種々様々な言葉の一つとして「無我」を取り上げています。「無我」とは仏教の言葉でありますが、この語の表す練達の境地は、それが世俗的な経験であること、宗教的な経験であることを問わず、意志と行動との間に「髪の毛一筋ほどの隙間もない」ときの体験であると説明されています。

特別な訓練によって、「いま私がしている」という意識を全く持たない状態になり、ある行為は努力なしに行われるようになります(本書272頁・取意)。


仏教では、観察する主体と観察される対象が不二となった状態のことを「悟り」とか「無我」という言葉で表しますが、日本人の修養の背景に仏教的な考え方が入り込んでいる事を感じさせる、本書の内容でした。

アメリカ人から見ると特異に見える日本人の特徴が他にも本書の中で紹介されていますが、今回の記事で一旦区切りといたします。本書を執筆したルース・ベネディクトは、アメリカ人からすると非常識に見える日本人の振るまいを異質なものとして排斥するのではなく、その様に振る舞うべき必然性が日本人の文化の中にあると、異質な文化を理解する態度を本書で見せました。

この様な、「私の知らない世界・価値観が他にもあり、私の考え方が全てではない」という姿勢は、仏教を学ぶことや、他の文化で生まれ育った人と接するうえで大切なことであると感じさせられました(了)。

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