今回から、『維摩経』の内容について、少し詳細に見て行こうと思います( 『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』植木雅俊訳の訳文と解説、『仏典講座 維摩経』紀野一義著、『岩波仏教辞典 』 の内容を纏めただけですが) 。まず 冒頭の概略を把握するために『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』植木雅俊訳の解説で述べられる『維摩経』冒頭の解説を掲載します。

第1幕は、ヴァイシャーリー郊外にあるアームラパーリー(庵羅婆利)という女性の所有する園林が舞台となっている。そこに、釈尊は多くの弟子たちとともに滞在し、菩薩にとってのブッダの国土の浄化について「衆生こそが菩薩にとってのブッダの国土」であると語り、この経全体が、衆生に利益をもたらすことなしに仏教はありえないというテーマであることを示している(第1章)

『維摩経』全体の概説はこちらをご参照ください。

舞台は美しきヴァイシャーリーという都市

『岩波仏教辞典』に「大乗涅槃経北本巻15に「如是我聞<にょぜがもん > よりないし歓喜奉行にいたる、かくの如きの一切を修多羅と名づく」というように、阿含から大乗にいたるまでの多くの個別経典の一般形式である。」と述べられる様に、鳩摩羅什訳の『維摩経』も「是くの如く我れ聞きき。一時、仏は毘耶離の庵羅樹園に大比丘衆八千人と倶に在せり」と始まります。

ヴァイシャーリー(毘耶離)という街は古代リッチャヴィー国の首都で釈尊 在世時の六大都市の一つでありました。ジャータカによれば釈尊は成道後5年にして飢饉に苦しんだこの街から招請を受け、訪れて安居をしたと伝えられています。

『岩波仏教辞典』第二版より(赤囲線は西原註)

『維摩経』に登場するリッチャヴィーの首長という人物を鳩摩羅什は「長者主」と漢訳し、僧肇撰『注維摩詰経』には「彼の国に王無し。唯、五百の居士、共に国政を治む。今、主と言うは衆の推す所なり」と註釈される様に、合議制で国が運営され、国主は選挙で選ばれるということが行われていたようであります。

釈尊が亡くなる前、北へ北へと旅する中でこの都市に立ち寄られますが、去り際に「ヴァイシャーリーは美しきかな、ヴァイシャーリーは美しきかな」と言われるほど美しい都市であり、種々の民族が集い、自由主義的な気風で満ち溢れる都市でありました。

釈尊滅後100年経った頃にこの都市で行われた第2回仏典結集(編纂会議)において、ヴァイシャーリーの出家者らが十事(10項目の戒律の緩和)を要求したことが記録に残っていますが、『維摩経』は、ヴァイシャーリーのこうした自由主義的な気風を受けて、伝統的・保守的仏教への批判とともに、大乗仏教を宣揚するものとして編纂されたと言えるのでしょう。

このお経の冒頭では、このヴァイシャーリー(毘耶離)という都市に色々な譬喩で示される徳を具えた多くの聖者が集った事が説かれています。

五百の傘蓋が一つとなる

時に、宝積と漢訳されるリッチャヴィ族の若者であったラトナーカラという菩薩が五百人の若者たちと一緒に七つの宝で飾られた日傘を持ち、ヴァイシャーリーの大都城を出でて、釈尊がいらっしゃる所に詣でて持参した傘で釈尊を覆うと、釈尊の不思議な力によって、五百の傘が一つの傘に合して三千大千世界を覆います。

『仏典講座 維摩経』紀野一義著の解釈

この情景について、紀野一義氏は『仏典講座 維摩経』の中で、傘は権威や自我の象徴であり、五百の傘が一つになったということをもって釈尊によって無我に至らしめられたというような趣旨の内容を述べています。続いて、紀野一義氏は興味深いエピソードを語ってくださっていますので、ご紹介いたします。以下、『仏典講座 維摩経』より引用。


東大の印度哲学科は、原坦山という方が開かれた。この方は曹洞宗のお坊さまで、幕末から明治にかけて生きていた方である。こんな話がある。

原坦山ともう一人の雲水が川を渡ろうとしていたら、娘さんが渡れずに困っていた。雲水は「背中におぶって渡してやろうか」と考えるが、おれは禅僧である。娘を背負って渡っては外聞が悪いし、戒律にそむくと考えてやめてしまう。

ところが原坦山はそんなことは考えない。困っているから「ホイ」と背負って渡してやる。

雲水は面白くない。人間は、腹の中に一物があると、どうしても言わぬわけにはゆかなくなる。ついに雲水は言い出した。「坦山、おまえは修行中の身でありながら娘を背負って川を渡るとはなにごとだ」原坦山はすかさず「なんだおまえ、まだ背負っているのか」と言った。坦山は川を渡れば娘を下したのである。ところが雲水は心の中に背負い放しであったというわけである。

この原坦山を、明治になって東京帝国大学学長の加藤弘之が口説き落として大学に連れてきた。その時原坦山は、浅草の露地の奥で、戸板の上に本をならべて売っていたそうである。それを口説き落として、東大の印哲で講義がはじめられたのである。

この時、他の学科の若手教授連が、「あいつは坊主のくせに学問の話をするそうだ。聞いてやろう」と言って聞きに来る。理科系の若い先生などは、自分たちが学問の先端を行っていると思っているから、どうしても、聞いてやろうという気持になる。

講義が終ると研究室へやって来て、さかんに質問をする。坦山は、前に置いてあった茶碗の中へお湯をどんどんつぐ。一杯になってもまだついでいる。教授たちが「そんなにつがれたらこぼれますが」と言ったら、「茶碗でも一杯になったら入らんじゃろうが。おまえさんがたの頭の中も、一杯入っているから わしの話が入らんのじゃ」と言われた。みんな閉口して逃げだしたという話である。

この先生の後にこられた村上精という真宗の先生が講義なさると、東大の一番広い教室がいっぱいになったといわれる。この先生は、袴の下へ手を突っこんで、きんたまを握って講義をしたという人である。それはもう講義などというものではない。いのちをぶっつけるような感じであったろう。だから、学生より先生方が夢中になって聞いたそうである。そういう講義のできる方が、昔は大ぜいおられたのである。

明治十三年に、本所で大火があった。原坦山は、本所の火事見舞いにゆかれた。焼け跡をフラフラ歩いているのを中野香亭という人が見つけて、「どうして こんなところを歩いていらっしゃるのですか」と訊ねた。「いやぁ、火事がひどかったから、知りあいが焼けたのじゃないかと思って、心配でさがしに来た」「その方は何という方ですか」と聞いたら、「さぁ、この大火事じゃから、名前もどうなったやら」と言われた。そういう方である。我などまったくないのである。

最初は見舞いに行った、その人のことを考えておられたのであろうが、あまりのすさまじさに、自分の友だち、人の友だちなんていう気持ちがなくなった。そして、火事で焼け出された大ぜいの人のことを案じ、多くの死者の霊を弔って歩かれたからである。これが小我を越えた大我の世界である。

そういう大我の世界が必要だということが、維摩経の冒頭で強調されるのである(以上)。

『ひろさちやの「維摩経」講話 』 ひろさちや著

『ひろさちやの「維摩経」講話 』 ひろさちや著の中で筆者は、病院=仏教教団、釈尊=病院長、出家者=入院患者、在家信者=通院患者に譬え、以下の様に述べています。

病院長(釈迦世尊)の存命中は、大勢の通院患者が病院を管理するようになると、彼らは通院患者を無視してしまったのです。いや、完全に無視することはできません。なぜなら、病院を運営していくためには相当の経費が必要です。その必要経費をちゃっかり在家信者に負担させて、病院そのものは出家者だけのものにしてしまった。それが、釈迦世尊が入滅されたあとの仏教教団の姿でした(『本書』4頁)

この様に閉鎖的な仏教教団を批判するという目的を持って編纂された『維摩経』であるので、釈尊に供養された五百の傘蓋が一つになって三千大千世界を覆うという表現は、釈尊に寄進されたものは全ての衆生のための資財であるべきだということを主張しているのだと述べています。

では、大乗仏教の教団に寄進することは、どういう意味になりますか?その意味を、『維摩経』はこのような話でもって語っているのです。すなわち、「仏」に寄進されたものは、大きく一つにまとめられて、三千大千世界に生きるすべての衆生の救いのための資財になるのです。

小乗仏教のサンガへの寄進が、病院への寄付であって、入院患者の治療に役立つものであれば、大乗仏教の教団への寄進は世の中全体の福利厚生の資金になる。そのように『維摩経』は言っているのです。われわれはこの話を、そのように読むべきだと思います(『本書』20頁)。


次回へ続く

五百の傘蓋が一つとなって三千大千世界を覆うという描写が終わり、ラトナーカラ(宝積)は右肩を露わにして偈頌をもって釈尊を讃嘆するのですが、その偈頌の中に一音説法(鳩摩羅什訳では「仏は一音を以て法を演説したもうに、衆生は類に随いて各、解することを得」)と言われる所があります。その話については次回に紹介します。

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