ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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サケブナス、ゴラアナ日記。

近所の高台に稲荷神社がある。

 

この地に暮らし始めてから、もう何度も何度もその稲荷神社には足を運んでいるが、それはいずれも昼間でさ、夜に行ったことがないなあと、ふとこの夜更けに思う。

 

ちょっと、いまから行ってみようかなって・・・。

 

ぼくは神道や仏教やキリスト教や、その他、何かの信仰を持っているわけではない。だから神社や仏閣に足を運ぶのは信仰ではなく、もっぱら建築的なヴィジュアル鑑賞が目的だったり、民俗学的な興味からである。

 

それでも、たとえば神社や仏閣や、あるいは建物なんかなにもなくても、信仰の対象になっている場所ってものは、場所によっては昼間でも何かしら不可思議な雰囲気が漂っているもので、ましてや夜になんて訪れるべきではないような気がする。夜だけじゃなくて、雨の日も。

 

単純に暗がりという怖さもあるけれど、それだけじゃない。

 

闇とか水とかって、なにかの溜まり場になるんじゃないのかな。

 

溜まり場っていうか、例えば特殊な録画装置とか、再生装置とか、その複合みたいなことになっていて、それはようするになにかの出口や入口みたいなものでさ、ぼくたちが知らない特殊な性質を持っているような。

 

単なる録画や再生だけならいいけれど、もっと別な意味合いや次元での、穴だったら。

 

よくわかんないけど。

 

ぼくたちはしらない?ぼくはよく知らない。でも知っている人はわずかにいるはず。知っているって嘘をついてる人はいっぱいいるけれど、本当に知っている人たちも少しいるはず。もしかしたら、ぼくはちょっと知っているのかも。

 

雨の日に関して言えば、「雨の日に神社に行っちゃいけないよ。」って、ぼくは幼い頃に誰かに何度も何度も言われたことを幽かに覚えている。誰に言われたのかはぼんやりしているけれど、たぶん祖父じゃないかな。

 

墓地で転ぶな、ともよく言われた。

 

それって禁足地でしちゃいけいないことの代表だよね。夜に入っちゃいけない、転んじゃいけない、背を向けちゃいけないとか。禁足地だからそもそも入っちゃいけないけど。

 

今は夜で、細かい雨が降っている。あの稲荷神社に足を運ぶには、ある意味では最高のシチュエーションかもしれない、まあ行かないけれど。

 

数年前に住んでいた山間の限界集落、その夜が、その夜の闇が凄まじく恐ろしかったことを思い出す。けれど、夜の闇が恐ろしいということは、まっとうな世界がそこにはあったんじゃなかろうか。

 

日記を書こうと思ったけれど、あまり日記にはならず、これから闇夜の稲荷神社に行って、身の毛もよだつ体験をしたなら、それを日記として明日にでも綴ろう。

 

眠ろっと。