Eden

Eden

時に理不尽でも尊いもの、それが人生。
人生の素晴らしさを伝えたい。

世界に存在する命の生きる源として在ることを通して。


命や人々の世界を生きていく源を湧き起こしてあげられるような輝き。


現実世界に自分として生まれて生きることになった
ことへの蟠りが癒されていくような光。


現実世界にそんな優しい時間が流れて
広がっていくことを意図しています。


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外界の基準に合わせて作り出した人格で、


無意識且つ努力して在ろうとしている反応。




自我の人格が続けている、その反応は当然不自然なので、


エネルギーの消耗が非常に激しく、


心身がすり減ることも多いかもしれない。




この反応は外界の基準に沿わなかった時の


痛みの記憶が影響して誕生したもの。
(演ずるように過ごしている人は多いと思われる。)




一般的な感性や常識的な捉え方に沿った過ごし方、


周囲が当たり前にできていると感じているけれど、


自分はそれがどうしてもできないと感じるもの。




即ち外界の基準から見た場合に人間失格的な判定をされるような、


自分の状態、生き方のままで大丈夫だと許してあげると、


物凄く肩の力が抜けて、生きやすく、活力に溢れていく。




外界の基準という視点では人間失格だと思われるような


考え方、感じ方、過ごし方、生き方は、神が創造した


世界に求められている(だから生かされている)存在の光と誇り。




大我の意識が各々の命に自由と調和の時代が訪れるように、


物事や社会で起こる現象を決めている関係上、


命を不自由にしている、命を不調和にしている、


自我人格の反応や意識が次々に削ぎ落されていく


流れに逆らえなくなっている人達も多い印象。




こういう時は痛みを伴う動揺が走る傾向があるが、


その痛みの原因に見える状況や人を不自由や不調和から


自身を解放させてくれる機会を届けてくれた存在として扱い、


自我人格の反応や影響を解かしていくと、


一歩一歩自由や調和の世界へと進んでいく。

人の管理体の意識、大我としての人格にとって、


地球アトラクションを人間として過ごす醍醐味は、


摩擦の体験と摩擦から引き出される人間ならではの情緒。




それぞれの今に起こる人間らしい摩擦体験と情緒を完了させて、


元々は全てを喜びとして目の前に創造した完成されている世界に


還すことが本体の自己が意識していること。




しかし、自我人格が求める理想や願いを形にする方へ、


どうしても流されがちになり、


なかなか目を向けられず、直面できないかもしれない。




知識も経験も不要だし、


沢山の訓練や学習、成長も不可欠ではなく、


多額のお金をかける必要もない。




無能な命、駄目な命は存在せず、


無限の創造力や思い通りにできる万能な性質、意識体故に、


そんなふうに演じられる時間を遊びたかった。




必要なこと、行うことは純粋な感度と反応を取り戻すこと。


本当に近すぎて逆に理解し辛い、単純すぎる真理が常に在る。




その体験の連続によって元々与えらている存在の崇高な価値と、


地球で人間を体験しにきた独自の理由を思い出す。




自我人格の視点では絶対に感じ取れなかった、


不思議と納得できる新しい視点や感触が湧き起こり、


本来は全てを喜びの要素として生み出した


完成されている世界へと還り始める。

世間の風潮やこれまでと今の人間関係の影響で、


無意識にするのが当たり前、した方が良いと信じて止まない、


自我人格の癖や記憶の影響が人の中には存在する。




家族関係、お金、仕事、学校、家事、育児などが代表例だが、


いずれにしても一方的な視点しか持てない、


偏った反射的なエネルギー反応が出る箇所は、


全て自我人格の癖で、管理体・本体の意識とは異なる。




しかし、このエリアに対しては


普通に生きていると疑う機会を持つことがなく、


疑うとしても大衆や一般的な時代の風潮から


大きく外れることになり兼ねないため、


自我人格の視点から見ると非常に勇気を要するテーマ。




時間や心のゆとりに最も関係している部分でもある。




こういうテーマと向き合う人は人間としての意識や、


人間としての世界、地球アトラクションからの


離脱のタイミングが訪れている方達だろうか。




そこから離脱していくと一部の似たような流れの中にいる方達に、


連鎖的に新しい可能性と喜びの光が波及するため、


普通に生きていると疑う意識すら出て来ない


自我人格の癖を解かすことにトライしてみては如何でしょうか?

人は自我人格としての意識から、


生きている世界の中に排除したい要素を見出す。




そして、それらが無くなった後の幸せと安らぎの感覚を


手に入れるためにエネルギーを向ける。




もしくはその排除したい要素から生じているように見えている


痛み、不快感が起きないようにするためにエネルギーを向ける。




そのような日々のエネルギーの扱いを繰り返す。




きっとどこかに解脱へと通じる


答え、手段、道があると信じて模索を続ける。




しかし、この地球アトラクションの世界では、


人の本体の意識、管理体の人格の視点にとっては、


排除するべき要素、改める方が良い要素、探求、答え探し、


より良い自分、より良い世界という概念は作られていない。




こうなったら嬉しい、こうなって欲しい、こうなってくれないかな、


といった自我人格の意識が思い描いている希望。




これがあれば満足できると信じて目指している


手に入れたい状態、得たい結果、実現したい目標や願望などは、


人の本体の意識、管理体の人格の視点からすると幻覚症状のような認識。




人の本体の意識、管理体の人格は無制限の創造力を活かして、


事前に人が希望したストーリー体験を希望通りに歩めるように


正確に日々現象を作り続けている関係上、


良くするべきこと、起きないようにするべきこと、


という概念が存在しないため。




人の本体の意識、管理体の人格が自我人格の意識に求めていることは、


日々変化を伴って起きてくる時間の流れを受容して味わい尽くすこと。




言い換えれば、自我人格の意識が排除したいと感じる


摩擦の体験や感覚に対して、こちらから親しみを持って


手を繋いで、仲良く共生するようなイメージ。




探求、答え探しはしなくても大丈夫。




何かを排除する、何かを手に入れようとするエネルギーの使い方から、


起きてくる全ての要素の存在を許して、味わうエネルギーの使い方へ。




誕生する生命達は必ず異なる生のプロセスを歩み、


全く同じ体験をすることはない。




全ての命が代替できない唯一無二の存在であり、


他の誰にも決して真似することができない


絶対的な存在の影響を持つ。




起きてくる現実の存在の全てを許し、味わっていく時、


命の持つ存在の影響からの眩い光が全て解き放たれ、


全てと自然と調和が取れていることに気付いていく。

自身と他者との間に境界線が存在する


他者がいる世界、分離した個別の世界ではなく。




全てと一体化している全てが、皆が自分自身である世界、


全てと自然調和している「私という個」がない全体に溶け込んだ存在。




真理を追い求めている方々はその全体に溶け込んだ状態になれれば、


本物の幸せや楽に生きられる人生が得られると信じて、


物凄く真面目に悟りに関する勉強をしたり、その教えをしっかり心掛けたり、


自身の命の役割や使命を探求したりして、


それに沿って生きるべきだと考えて努力をされている方が多いかもしれない。




ただ、上記のような全体性の存在や世界というのは、


知識や情報を活かして、なろうとしてなれるものではなく・・・。




この地球アトラクションの進行権限と決裁権を持っている


管理体の意識が事前に希望した、自身と他者との間に境界線が存在する


各々が分離した世界から起こる摩擦の体験と感情を、


一つ一つ味わい切るプロセスの先で現れる結果。




この摩擦の体験と感情は分離した意識や人格の方が何かしようとしなくても、


本体の意識や人格の方が日々自動的に生み出してくれるので、


行うことは今起きている摩擦の体験と感情を


味わい尽くして完了させていくこと。




そのためには、理性や知識、道徳心、記憶、仮の人格などによって


抑えられているストレスに対する純粋な感度を取り戻すことが鍵。




打算、賢さ、身を守る習性への執着心が解けて、


人間らしい情緒に溢れる無邪気な感度が蘇ってくると進行がスムーズに。




実にシンプルで、まさに灯台下暗し。


他者の力を借りなくても、誰でも今のままで、自分一人で取り組めること。




どうぞ一人でリラックスして過ごせる時間を取って、


純粋な感度から湧き起こるストレスに対する


正直なエネルギー状態、感情、零れ落ちる涙を、


一つ一つ余すところなく味わってみて下さい。