なんかいつの間にか時間が経っている。
せっかくの休みだったはずなのに、なんにもしてない気がする。
なんだか虚しい。

休んだという『実感』が欲しい。
『自由』な時間が欲しい。
それでもやらなきゃいけないことは、そこにある。
消えてなくなったりはしない。

だったら、やらなきゃいけないことをさっさと済ませて
『自由時間』を作ろう!

…こんな思考回路が私にとっては
罠だったことに気づきました。


過労主婦


そもそもこういう思考になったことで
「時間が無い」というあせりに焦点が当たります。

「無い」という感覚は飢餓感の一種です。
エサをやってもやっても、満たされることはありません。

大体、永遠に生きる人がいない以上、
どうあがいても時間には限りがあります。

その限られた時間の大半を
「速く済まそう」
というあせった気分で過ごすなんて、
あまりに残念!

じゃあ、どうすりゃいいのか。

今まで当たり前だと思ってたことを疑ってみます。

その「やらなきゃいけないこと」
本当に「やらなきゃいけない」のか?

すごく極論すれば、
私が死んでも、世の中はちゃんと回ります

私がいなくても大丈夫なくらいなんだから、
ほんっとうにやらなきゃいけないことなんて、
他の人のためなら、全然無い。

私が、私のために、
生きているうちにやっておきたいことだけが
強いて言えば「やらなきゃいけない」こと。

それすら、やらなきゃ「いけない」ことはなくて、
いやなら止めればいいだけの話。

まずは、
「やらなきゃいけない」
という思い込みを解いてみる

つまり、真面目な私が
「やらなきゃいけない」
と思い込んできたものは、
本当は、やってもやらなくても
「どっちでもいい」

あなたがしゃかりきになってそこでやらなくても、
絶対になんとかなってる。

そうなると、すべてのことを
「済ませるため」にするのではなくて、
「する」ためにすることができます。

汚れがついた洗面台をきれいに磨く過程が楽しい♪
きれいになった洗面台を見るのも、使うのも楽しい♪
なにか、洗面台をかわいがっている感覚すら湧いてきます。

こうなると、掃除も
「やらなきゃいけない」ことから、めでたく
「やりたいこと」に変化します。

ベースが「どっちでもいい」「自由」なので、
いわゆる「仕事」とされていることをしても
時間に追いかけられるストレスがあまりありません。

ストレスがないと、あえて
純粋な自由時間が欲しい!
という欲もなくなります。

何をやっても、自由時間。
何をやっても、自分でやりたくてやっていること。
これが、実はホントのところなんじゃないかな。