なぜか、ネット検索をしていて「毒親診断」(毒親に育てられたかどうか)に引っかかった。試しに2、3やってみた。

どこのサイトも父と母を分けずに「親」としているけれど、私の両親は、ほぼすべて当てはまるくらい完璧な毒親だった。毒親だとは思っていたけど、ここまで完璧だとは思わなかった。

一つ、毒親をタイプ分けして設問しているサイトがあった。「先回りして世話を焼き、子供に経験させないタイプ」「子供と向き合わず、やたら自己卑下、逃避するタイプ」の設問だけはまったく当てはまらなかったけど。

毒親だとは思ってたけど、ちょっと愕然とした。

父も母も、人から褒められたい人で、明らかに非難されそうなことはしなかった。おかげで、毒親ぶりに多少歯止めがかかっていたのは、幸い(?)だった(小学生の頃、両親の暴言がすごくて(でもバカだの死ねだのという明らかなNG言葉は使わない)、肉体的な虐待だったら警察に助けを求められるけど、何も証拠が残らないから誰にも助けを求められないな、とちらっと思った記憶がある)。

うちには、まともな会話がなかった。父母が話し合うときは、たいていが喧嘩腰だった。私に関係がなくても、その声を聞いていると胃が重くなった。母は、「言葉のスポーツだ」と言い張った。

HSPの私が一番目の子供で、この毒親たちとまともに向き合っていたのだ。しかも、毒親とはつゆ知らず、親の言葉をすべて真に受けて、いつもいつも、どうしたら親との関係が破綻しなくて済むのか、努力していたのだ。

子供にとって、最初の「当たり前」の基準は家庭で育まれる。私にとっては自分の育った家庭が当たり前であり、機能不全家庭だと気づくまでには、ものすごく長い時間がかかった。

同時に、私は何も悪くない、それどころか、これだけ最善を尽くして、なんて健気ないい子だったのだろう、とわかったのも、半世紀を過ぎてからだ。

ただ、私自身はよく思い出してみれば、親の愛情を感じたことがない。

たま~に友人との会話で家庭の話題になると、あまりのギャップで会話にならなくなる。

それに、毒親が表に現れるようになったのは、近頃のことだ。それまでは、親は子に無償の愛を与える存在であり、子が親を大切にするのが当たり前で、それ以外の選択肢はなかった。

学生生活が終わる頃、親のエネルギーがあまりに大きすぎて、私の人生が巻き込まれてしまう危険を感じた。物理的に距離を置くことができたのは、幸いだった。

それでも、できる範囲内で、私はいい娘であり続けた。毒親の影響の大きさは、私にはわからなかった。別に親と戦いたいわけではない。自分が壊れないように距離を置いているだけだ。いくらなんでも、自分と同じ程度には両親にも人の情はあるだろう、と思っていた。

この人たちには、もしかしたら情は通じないのかもしれない(とくに母はうまく取り繕っているから、他人にはわからないかもしれないけど)、と思ったのは、あまりにも遅すぎたけど、昨年 だ。

https://ameblo.jp/e-soudattano/entry-12535247785.html

ある時、はたと気がついた。私はこの家庭で育ったせいで、かなり早くに心の病から死にかけたことがある(私自身は当時まるで気づいていなかったけど)。

間接的には、この両親に殺されかけたと考えられないこともない。

自分を殺しかけた人に、まめに連絡をとって、親孝行をしようだなんて、どこかおかしくないか? 大丈夫か、私?

こういう暗く重い話は、普通、誰だってあまり聞きたがらないし読みたくない。だから、私も普段は誰にも話さず自分一人で抱えている。でも、まるで恥ずかしいことのように隠しているのでは、ずーっと誰にも助けを求められなかった私がかわいそうだ。

幸か不幸か、夫も状況は似ている。

私とはポイントがずれているけど、もしかしたらHSP。

義両親は、私の親のように攻撃的ではないけれど、仕事が忙しすぎて、結果的にネグレクト。親の世界は子どもとあまりに違いすぎ、親は子どもの世界への関心もない。だから、会話も一方的に親の一人がしゃべりまくる。これも、うちと一緒。

夫はかなり私の状況を分かってくれる。私が自分の親のひどさに気がついて、夫が自分の親に感じるストレスもより分かるようになった。自分の親に夫を付き合わせたことも、申し訳なく思う。

状況が見えてくると、私がここまで生きてこれて、生活できて、そのうえ幸せな結婚生活ができているなんて、もう奇跡に近い。

なのに私は、今まで自分に立ち止まることを許さず、もっと何かあるはず、もっと進むべき、と自分を追い立てて来たのだ。

もうこれでいいわ、今、生きているだけで金メダル、ということがわかったから。

自分を分析するのは、なんだか自分にレッテルを貼って、自分に限界を設けるみたいで、本当は気が進まない。

でも、自分を分析することで、逆に周りがどうなのかがわかり、自分との違いがわかって、社会との関わり方に役に立つ。自分の視点は、自分一人じゃ変えようがないから。

とりとめがないけど、終わります。