エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

“青函連絡船” の 思い出

2020-09-24 08:12:00 | 日記

既に “青函連絡船” の存在も記憶も薄れていると思います。


・・・ 津軽海峡・冬景色 ・・・ 歌「石川 さゆり」

 上野発の夜行列車おりた時から~ 青森駅は雪の中

北へ帰る人の群れは誰も無口で~ 海鳴りだけを聞いている

私もひとり 連絡船 に乗り~ 凍えそうなカモメ見つめ泣いていました

あああ あ~ 津軽海峡・冬景色 

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東北本線&奥羽本線の下り終点“青森駅”と、函館本線の始発“函館駅”を結ぶ 青函連絡船 は、1988年(32年前)に役目を終えて廃止になっています。 理由は、世界最長の青函トンネル(約 54㎞)が完成したからです。 北海道と本州が線路で繋がるのは人々の悲願でしたので、青函連絡船の廃船は致し方の無い事です。 しかし、便利とは言えない“連絡船”の旅は、ドラマに似た思い出があるものです。「津軽海峡を乗り越えられた」故郷を後にする人・帰る人、それぞれです。 良い事も悪い事も、全てが思い出です!  

私は、10回(5往復)ほど“青函連絡船”に乗ったと思います。 最大の問題は、時間が掛かる事です。 本来 本州と北海道は、最短距離で30kmしかありません。 青函連絡船の航路は、両港(青森港~函館港)まで 113kmと長過ぎました。 津軽海峡より、陸奥湾を航行する距離が、遥かに長かったのです。
90年(1908~1988年)青函連絡船は、本州と北海道を繋ぐ“架け橋”でした。 1日十本ほど、青函連絡船を担当する国鉄マン(現・JR職員)は、仕事とはいえ大変だったと思います。 客車貨車を その都度“連絡船”に乗り換え、乗客を安全に誘導しなければなりません。 乗客名簿を確認し、転落事故は いないか? 相当 苦労されたと思います!   

◎ 青函連絡船は 乗客・客車・貨車を運びます。

私が“青函連絡船”を最後に利用したのは、1970年代後半だったと思います。 急用で東京へ行ったものの、帰りは年末で列車の予約が困難でした。 止む無く、各駅停車の在来線に乗ったのが、悪夢の始まりです。 SL(蒸気機関車)で遅いのは当然ですが、搭乗客は優に“400%”(今では考えられない)を越えていました。 荷物を抱えた乗客が、客車に押し込まれたのですから、状況は想像できると思います。 上野駅~青森駅まで14時間、何人も具合が悪くなり途中下車しました。 若かった私は、辛うじてピンチを乗り越える事が出来ましたが、地獄の様な経験は二度としたくないと後悔しました。 青森駅に到着し、青函連絡船に乗って 6時間は天国でた。 連絡船のデッキに立って、冷たい潮風を受けた時、身も心も蘇る思いでした。 函館駅へ着き 再びSLに乗って最寄り駅へ 4時間、24時間の旅は終わりました。 以降、“青函連絡船”も“国鉄”(現・JR)も利用していません。 

◎ 1988年 廃止された「青函連絡船」

  

“青函連絡船”で最大の事故は「洞爺丸」の沈没でした。 1954年、台風情報がありながら強行出発した「洞爺丸」は、終点の函館港を目前に横風を受け、沈没しました。 船底に積んだ重い“客車”や“貨車”が、瞬時に荷崩れを起こし大破したのです。 その結果 犠牲者は、死亡者・行方不明者を含め 1,154名と、日本船舶事故最大の“惨事”でした。 また、小さな事故や自殺者は 数え切れない程 あったそうです!                 


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