徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

『氾濫』 伊藤整

2020-11-21 12:39:56 | 日本文学散歩
伊藤整の『氾濫』を読みました。題名のとおり、氾濫としかいいようのない登場人物たちの日常を描いている小説です。
 
平凡な一技術者に過ぎなかった主人公が開発した製品がヒット。それまで薄給に甘んじていた主人公は会社の役員となり、一挙に社会の上層へと駆け上がっていきます。それに伴って彼の妻、娘の生活も180度変わっていくのです。
 
主人公の真田佐平は本来、研究室で好きな研究に打ち込んでいることに生きがいを感じる男でしたが、彼を取りまく境遇の変化によって、それまでの生き方を続けることができなくなったことを認識します。それまでつつましやかだった彼の妻は派手になり、自宅では娘が企画した友だちとのパーティーが行われ、茶道、華道の家元が出入。気がつけば彼の居場所はなくなっているのでした。
 
それだけではなく、彼の妻は家に出入りする若い音楽教師と関係をもちます。さらに彼自身も昔の恋人との関係が復活し、娘はひたすら父親に反発を繰り返す。
 
読み進むにつれて、この家族どうなってしまうのだろうか、と不安になってしまいます。それまで守ってきた家族のきずなというものが音をたてて決壊し、あたかも家族全員が渦巻く奔流のなかに投げ出されていくようなイメージがわいてくるのですね。
 
しかし、この家族関係が崩壊することはありません。きわどい場面もありますが、ぎりぎりのところで踏みとどまり、表面は何事もなかったかのような生活が続いていくのです。
 
興味深いことにこの小説では『氾濫』に登場する人物たちのほとんどが、こういった真田の家族と同じ生活をしていることが語られていきます。
 
見えないところでどんなことをしていようが、表面はそんなことをおくびにも出さずに暮らしていく。それが人生のうまい生き方、といった口吻をもらす人物も『氾濫』には登場します。
 
個人的には好きになれないタイプですが、こういった考え方もあるのでしょう。状況によっては自分を偽ることでその場を収めるというのは良くあることだと思います。ただ、『氾濫』で扱われているのはともに暮らす家族の信頼を踏みにじって恥じるところのない人間の姿です。
 
これはいかがなものか、と考えるのは私だけでしょうか。当初は愛情にあふれていても、ともに暮らす時間が長くなるにつれてそれよりも日々の生活、自分がしたいことができる生活を維持するほうが大事になっていくのが人間の本質というのなら、少しさみしくなります。
 
 
 
ちなみにこの作品が書かれたのは昭和31年。当時はまだ家族が一つの単位として社会にしっかりと根付いていた時代だったと思います。ですから、この作品でも家族の形は変わらずに、それまでの生活がそのまま続いていくといったラストになったのでしょう。
 
『氾濫』は現代ならどのように書かれるのでしょうか。どこまでも氾濫していく奔流に飲みこまれ、家族も人生も失っていく人の姿が私には見えるような気がします。

コメントを投稿