古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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矢嶋忠左衛門の妻三村鶴子の郷里 益城町櫛嶋

2019-02-12 23:14:40 | 熊本の偉人


 

 県道226号線を浮島神社の方へ左折して矢形橋を渡り1Kmばかり東へ行くと周囲を田に囲まれた小集落、櫛嶋があります。肥後国誌には、「櫛島村、井寺村ノ内、高弐百拾六石余、往古此辺海湖ノ時山上ヨリ望見レバ此所櫛ノ形ニ似タル島ナル故名付ケシト云伝フ古キ地名ナルヘシ」とあります。近くには彌生遺跡の井寺古墳などもあり、この辺は国誌が云うとおり古くから拓けた土地なのでしょう。

 

 右側の小高い山は飯田山、左方へ連なっているのは船の山、左側に幽かに俵山も見えています。三村鶴子はこの櫛嶋村に寛政10年(1798)庄屋三村和兵衛の長女として生まれました。和兵衛は後に廻江手永御惣庄屋に昇進します。鶴子は村庄屋の長女として女一通りの教育を受けて育ちますが、『矢嶋楫子伝』によれば「父母に孝で褒美をうけた心懸けの良い娘、才色兼備、手蹟は見事。父母に掌中の玉と愛でられる。」とあります。また、『津森村郷土誌』によれば「鶴子刀自は三村氏の出にして、矢島忠左衛門直明の室なり。夙に賢婦人の聞へ高く、良人の各地に歴任されるに従ひ、内助の功を全ふせられたるのみならず、日常の繁忙を極めつつある中、能く八人の子女を教養して倦まず、悉く偉人豪傑節婦として推奨すべき人たらしめたるが如き、寔に婦人の亀鑑とするに足れり」とあります。


熊野坐神社(クマノイマスジンジャ)

 益城町が出している案内板に御祭神は「イザナギ・イザナミ」の2神とあって勧請の時期や由来は不明とした後に大永年間頃集落の守護神として迎え、共同体意識を固めていった、とあります。大永年間といえば16世紀初め頃の戦乱に明け暮れていた時代ですが、その頃に櫛嶋は中世村落として発展の基を築いたわけです。三村氏の入植がいつ頃のことかか分かりませんが、鶴子の生まれた頃には、すでに村落共同体のシンボルとして神社が存在し、初詣、風祭り、紐解き、馬祭りなどが行われる祭日は賑わったことでしょう。鶴子は神信心の篤い女性でした。子供の病気や性癖で気になることがあると願掛けをして祈っていたそうです。そういう信心の原点がこの神社だったわけです。


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