むぎの城さんぽ

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お城・史跡めぐり(目次のページ)

2031年01月01日 | その他
【城郭空撮シリーズ07】 越前国 大野城
次回の動画配信は、【お城の授業シリーズ】です。ぜひ、みてくれると嬉しいのだ


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吉見城(千葉県)

2024年01月19日 | 百名城以外の城
吉見城よしみじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県佐倉市吉見 地図

吉見城は、1479年(文明9年)に太田道灌、1566年(永禄9年)に上杉謙信
によって攻められた臼井城の支城として築かれた城ではないかと推定されます。
吉見城のすぐ北側には臼井屋敷跡遺跡があり、同時に発掘調査が進められてきました。
城跡は、築城以前より人の生活の様子が見られ、廃城後も現在に至るまで
人々の生活に利用されて来ました。
土塁が残るものの、城としての詳細はまだまだ分かっていません。




土塁と平場だけは確認できたものの、縄張もわかりずらく
宅地になっているので改修もされていると思われ、
よくわからない。



柵列や溝状の遺構などで区画がされている様子が
発掘調査で確認されているようですが、建物跡は検出されていません。
白井屋敷跡と重なる部分があり、時代的にも両者との関係性が注目されるところです。


令和5年1月4日登城




穂積城(大阪府)

2024年01月16日 | 百名城以外の城
穂積城ほづみじょう
別名穂積砦
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市中穂積2丁目16−34 地図

穂積城は、山田十三城のひとつで現在は春日神社の境内となっています。
詳しいことはわかっていませんが、城域は山の麓におよび
「城の堀」という地名となってその名残があり、かつてこの地に城があったことを伺わせます。



春日神社

奈良時代から平安時代には、この周辺を穂積郷と呼ばれ
一部の地域は大和国西大寺領であったと伝わります。
この階段を登ると春日神社です。


境内

穂積は、穂摘みの義といわれ、耕作に従事した穂積氏が存在したと伝わり、
穂積郷の穂積氏がこの地を支配していたと推定することも出来ます。


春日神社

茨木市だけでもちょっと検索しただけでも春日神社は沢山あります。


案内看板

現在、中穂積の春日神社境内になっている小高い山は、茨木の町を一望できる格好の場所であり、
昔から何らかの要地として利用されたことが考えられます。
「大阪府全志」によると塁堡の址、春日村中穂積、塁堡の址は字地に「城の堀」を称するあり。
「摂津志」にその所ならんかと書かれており、城跡(砦)があったことが伺われます。
しかし、城(砦)があったとしても、その築城年や城主、興廃など詳しいことはわかっていません。
ただ城の堀という小字が今の済生会病院辺りで、その西側の小字「山の下」まで上り坂が続き、
そこから山上までの間に土塁状の平地があり、
ここに城としての何らかの施設があったとも考えられています。
さらに山上は広い平地となっており、これらの地形や地名などからみて、
何らかの塁堡(砦)が存在していたことが想定されています。



井戸

古くからあるものなのか・・・


太鼓石

陣を張った時にここで太鼓を鳴らしたのか、
はたまた時を告げる太鼓をここで鳴らしていたのか
謂れが不明なので勝手に想像するしかないのですが何かありそうな石です。


御神木




春日神社までは車で来ることが出来ます。
住宅地の脇の細い道を抜けてくるのですが、いつもながら楽して登城してしまいました。


令和5年7月16日登城




越前大野城(福井県)

2024年01月07日 | 続百名城
越前大野城えちぜんおおのじょう
別名亀山城
構造平山城
築城者金森長近
築城年代1575年(天正3年)
指定史跡県指定史跡
場所大野市城町3-109 地図
スタンプ設置場所越前大野城一階
御城印受付窓口売店
城郭検定出題あり

越前大野城は、亀山に築かれた平山城で秋から春にかけての早朝に
条件によって雲海が現れ、年に10回程しか見られないため「幻の天空の城」と呼ばれ
幻想的な景色を見られることがあります。
織田信長に仕えた金森長近は、越前の一向一揆を平定した功績により
大野3万石を与えられ朝倉氏の居城であった戌山城に入りました。
しかし、戌山城は標高の高い山城だったため新たに亀山に大野城を築き居城としました。



駐車場

三の丸側にある駐車場にやってきました。
駐車場は比較的に多くいくつかあります。
今回は南登城路に近い場所にしました。


南登城路の門

通称搦手門とも言われていますが、実際の搦手門は北側にあったようです。


百間坂

江戸期まで、本丸に行く道は百間坂しかありませんでした。


遊歩道
明治期に造られた遊歩道のおかげでゆる~く登ることが出来ます。
途中、ショートカット出来る階段もあります。


土井利忠像

幕末の名君、土井利忠の銅像です。
その名君ぶりはあずまやの中に掲げられた案内板に記されています。


あずまや

あずまやの中には、なにやら看板が掲げられています。


幕末の大野藩の偉業

「幕末の大野藩の偉業」と書いてあり、休憩しながら読むのには
なかなか良い内容です。



さて、正面に見える階段を登るか、また回り道をするのかどっちにしようかな。。。


階段

坂道をゆる~く歩いて来たので体力が余っています。
ここらで、階段に挑戦しますか(^^)v
なかなか疲れそうな階段ですよ。でも、このくらいは運動、運動!


御当地自販機
そろそろ喉が渇くよなあ~と思った頃に自販機登場!
しかも御当地柄です(^O^)




いよいよ、本丸です!


お福池

織田信長の正室である濃姫の侍女だったお福は、金森長近の正室となり
お福の名がつけられた池があります。


武具蔵跡

門の上には武具蔵跡があります。



武具蔵前も木々が無ければとても見晴らしの良い場所です。
ここを進めば天守はすぐそこ!


天守入口

大天守と小天守の間の入り組んだ場所に入口があります。


受付

入城料を支払い、御城印を2種類購入。
城内は撮影禁止なので最上階まで撮影はお預け。


続・百名城スタンプ

続100名城のスタンプ設置場所です。


パンフレット

受付隣の大天守と小天守の間にあるパンフレット置き場には
攻城団のパンフレットも並んでいます!
もちろん、ゲットです


天守最上階

最上階へやって来ました。


戌山城・亥山城

雲海の撮影には戌山城・亥山城方面から撮るのが良いとされますが、
年に10回程しかそのチャンスが無く、例年その時期がやってくると
ニュースでも取り上げられるほど話題性のある天空の城です。
せっかく一眼レフカメラを買ってもらったことだし、ぜひとも、
戌山城へ行って幻想的な写真を撮ってみたいものです。
(それまでには腕を磨かねば…その道のりはまだまだ遠し…)



ズームしてみました。
普段戌山城から天空の城大野城を眺めるのですが、逆をやってみました。
この時間では、あっちに人はいないようですね。
大勢いるところをこっちから撮影してみたいものです


小天守と城下

小天守を見下ろしています。
現在の小天守天のある場所にはかつて大天守の狗之間があった場所です。
本来小天守があったのは武者登りがある方角にありました。


権現宮跡

ここにはお宮があったのかな。



かつての小天守はこの辺りにありました。


武者登り

天守台に折れ曲がった武者登り。
石垣は角が好きそして複雑に折れているのも好物です
この角度、とてもかっこいいです



天守台は野面積です。
ここからの角度が良い感じ。
でも、本当は手前に小天守があって、奥に大天守があったのかと思うと
全然違う光景だったんだろうなあと想像してしまいます。


金森長近像

なんとも愛嬌のある銅像ですね。
お城にある銅像としては勇ましさが無く、なんとも緊張感がありません。


城址碑

武士たちが登城する際に登った百間坂を抜けて番所を通るルートで来ると
この城址碑の前に出るのでこちらに城址碑が立っています。
私はなぜかいつも意識していないのですが、裏から入城してしまいます^^;


麻木櫓跡

大野城では、亀山の上には4棟の櫓が築かれていました。
ここ、麻木櫓はその中でも唯一二階建ての櫓でした。


金龍院

織田信長と殉死した嫡男・長則を弔うため金龍院という塔頭を建立しました。


亀山観音

亀山観音石仏は三十三観音とも呼ばれ、北登山道入口から南口まで三十三観音石仏が並んでいました。
しかし、伊勢湾台風により観音堂が倒壊したため、現在の地に集められ民衆を見守っています。
一体一体、いろいろな観音様がいらして飽きずに拝見できます。


北登り口

北の先端まで降りて来ました。
ここからは城下町にもなっている二の丸、三の丸の中を通過して
駐車場へ戻って行きたいと思います。


武家屋敷

ここは大野藩家老を務めた田村又左衛門の屋敷跡です。
他にも近くには旧内山家も武家住宅を今に伝えるため公開されています。


風車棚

夏秋限定の風車棚です。
カラフルな風車が風流ですね。


大野市民族資料館

鳥居の左に見える建物が、明治22年に建てられた大野治安裁判所を移築して、
明治・昭和の生活用品を展示している資料館です。


西登り口

最初はこちらに駐車して登城しようと思ったのですが、この階段を見上げ
案内看板を見て南登り口へと回りました^^;


駐車場

普通車が23台駐車可能です。
体力に自信のある人は、ここを登る方が天守に近いかも。



以前からずっと来てみたかった越前大野城。
前日の攻城団団員総会では、カメラマンの山口さんに、一眼レフカメラの使い方について
「とにかく最初からマニュアルを使って慣れるのが早く上達する」とアドバイスされ
団員のフロンさんに使い方を教えていただき、実践してみました。
ダイヤルやモードを変えるごとに数字が変わり、頭の中はぐっちゃぐちゃでしたが、
とにかく見よう見真似でマニュアルモードで撮影に挑みました。
保険でオートモードとコンデジ、スマホと大忙し。
良い感じに撮れたかな?と思いきや、あまりパッとしない画像…。
何が悪かったのかとカメラをよ~く見ると、ダイヤルはマニュアルなのに
フォーカスモードの切り替えをするのを忘れていました。

腕をあげて、ぜひ雲海に浮かぶ越前大野城を戌山城側から撮影してみたいものです。
そんなチャンスがいつか訪れることを願い、大野城を後にしました。


令和元年8月25日登城
令和5年11月25日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


守口城(大阪府)

2023年12月28日 | 百名城以外の城
守口城もりぐちじょう
別名森口城
構造平城
築城者不明
築城年代室町時代
指定史跡
場所大阪府守口市竜田通1丁目5 地図

室町時代に築かれたと考えられている守口城は、誰が築城したのか
詳しいことは分かっていません。
応永の乱の際、大内義弘の家臣杉九郎が守備していたと伝わります。
石山合戦の際は、石山本願寺の出城として合戦の場となっていますが
織田信長に降伏しています。
現在、難宗寺が本丸と推定され、太鼓櫓が城址を思い浮かべるかのように建っています。



道標

東海道五十三次にある五十七番目にある宿場が守口宿です。
東海道の京都から大阪の間にある宿場は、54伏見・55淀・56枚方
そして57守口となります。





難宗寺

浄土真宗の僧蓮如上人が1477年に創立した守口御坊がはじまりと伝わります。
1611年(慶長16年)に本願寺掛所となり西御坊と呼ばれるようになりました。


守口宿本陣跡

守口宿本陣は、江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使・宮門跡等が宿泊した公認の宿舎です。
この場所が枚方・大坂への人馬継立や荷物の受け渡しをする所だったために、
標準とされる道幅とは大きく違い、広大な道幅となっていることで重要地であったことが伺えます。


大塩平八郎ゆかりの書院跡

白井家の隠居所で、江戸時代の陽明学者で大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が、
守口近郷の農民に陽明学を講義したところです。
当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行い、
1837年2月19日(天保8年)に起きた、大塩平八郎の乱といわれる大坂騒動に参加しましたが、
わずか1日で鎮圧され、後に一家には処罰が下されました。


令和5年7月15日登城