むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

用土城(埼玉県)

2020年09月17日 | 百名城以外の城
用土城ようどじょう
別名高城
構造平城
築城者藤田康邦
築城年代 1546年(天文15年)
指定史跡
場所埼玉県大里郡寄居町用土 地図

藤田康邦用土新佐衛門の隠居所として築城された城と伝えられています。
鎌倉街道を押さえる要所に築かれました。
これまでの居城であった花園城天神山城を養子の北条城氏邦に譲り、
用土城へと退きました。
その後天正18年鉢形城が落城すると用土城も豊臣方に攻められ落城し、廃城となりました。
現況では後世に建てた石碑や地名が残っているのみです。


駐車場

寄居町農業ふれあいセンターの駐車場に車を停めて散策することにしました。


寄居町農業ふれあいセンター

地域の農業を振興させるための施設でのようですが、
屋根を見ると、鯱が載ってます!
ここが城址であることを意識して造られているようです。


馬場曲輪

ただ、残念なことに農地改良したので今は遺構が残っていません。



城跡碑のあるこの場所は、城跡碑によると馬場曲輪に当たる場所のようです。
本丸はここから少し北東へ進んだ畑の中のようです。


城跡碑

城跡碑のある場所は、コンパクトな公園になっており、
周囲には遊具が設置されています。



城跡碑の裏側にまわってみると、
城跡の説明が刻み込まれていました。


天満天神宮

天神山城の麓にある白鳥神社も氏邦が天神宮を厚く崇敬していたこともあり、
菅原道真を祀る天神宮を、康邦も隠居先のこちらで信仰していたのでしょうか。



ところで、藤田康邦が没後、長男の弥八郎が家督を継いだのですが、
沼田城で康邦の養子となった北条氏邦に毒殺されています。
やはり養子縁組をすると家督争いになりやすいものですね。
上杉家でも館の乱のようなこともあるし、
たとえ、実子であっても伊達家のようなこともあるので一言で一概には言えないのですが
身内で殺し合う世の中に生まれなくて良かったとつくづく思ってしまいます。


用土城懐古碑

赤城妙榛三山雄
瓊枝垂桜城址融
戦国生残強食理
藤家三代美民衷



手書きの懐古碑の読み下しがあります。
赤城妙榛三山雄は赤城山・妙義山・榛名山の上毛三山のことで
藤家三代美民衷は藤田康邦・氏邦・弥八郎の藤田氏三代ということのようですね。



大正5年に開墾され農耕地となり、遺構は消滅しています。
しかし、藤田氏の足跡は多く残されているので隠居城となった用土城を
無くして藤田氏を語る訳にはいかないので遺構は無くとも紹介せざるを得ない城跡です。


正龍寺

そして次にやって来たのは、用土城から約3Kmほど離れた
藤田康邦と北条氏邦の墓所があるという正龍寺です。
とても立派な山門が出迎えてくれます。


藤田氏墓

県の指定史跡ともなっている藤田康邦の墓です。
隣には康邦の娘である大福御前を妻とする養子の北条氏邦の墓もあります。
どちらも、夫人と共に墓が建てられています。


攻城団で登録になったということで、県内沼田方面行くより近いので早速訪れてみました。
周囲を見渡すと長閑で要害もなく、城を置くような雰囲気には見えないような場所です。
今の時代なら隠居するなら良いと思うのですが、戦国期で想像すると
簡単に攻め込まれてしまいそうな立地なのにどうしてここだったのかなあ?という気がします^^;
(個人的感想です)


令和2年9月13日登城



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