魂が自由になる為にこの世に生まれてきました
今生はこの肉体を借りて意識が生きているという概念です
その意識が何度も生まれ変わり、輪廻転生している、
意識が続いている、というか、意識は繋がっている
その命を与えられては、呪縛や依存を手放し、自分を知り、自分を明らかにする
意識が柔軟に細やかになる為に、ただこの世を楽しんでいるだけかも知れない
本当のところはお坊さんも神職さんも知っているようで信じているかなんて分からないかも
いくらどんな人がこのように生きるんですよと言っても
見える世界にドップリ浸かって生活していると
あ~だのこ~だの言いながらも何にしろ他人事
自分の身に起こって初めてあたふたするんだろう
それでも良いんじゃないか
ず~っとあたふたする人はず~っとあたふたする
何でも自分の身に置き換えられない人は自分の事だと考えられない
段々身勝手な、自分を棚に上げてという世の中になっている
意識の方が呆れて肉体を放り出すかも
本来は生を受けた時に平等と自由を与えられ
命を全うするという責任を持って生きる
そんな事を考える
今、世間を騒がしているコロナウイルス
こんな時にもあたふたしても始まらない
普段から肉体もいろんな外的要因から守ろうとして働いてくれていたりする
それなのに自分の身体を労わろうとしているのかどうなのか
普段から自分を痛めつけているのは自分ではないのか
マスクの買いだめなどして物理的に防ごうとしてもかかるものはかかる
防ぎようなどないと思う
何かあった時にあたふたするのではなく、普段からの意識を変えていく方が良いのではないかなと思う
私も、怖がりだけど成るようにしか成らないと、放棄ではなく
命の覚悟はいつでもある
命に向き合っている人の目の前では言葉にはしませんが、実際いつ死んでも良いかなと
かと言って、命を粗末にはしませんし、普段から覚悟しながら大切にしようと努めています
死ぬ瞬間を考えたらどうやって死にたいかと話題になる時がある
いつかは死ぬけど、死に様は考える
あがきまくらんように死にたいとか
癌になってしまったらそれで死ねるもんならそれでも良いし、災害に巻き込まれるならそれでも良い
きっとそう決めているし、決められているんだろう
そんなんその立場やその現状になれば、そんな事言ってられへんよ!と人に言われるけど
20年前に腸閉塞になった時
これは、その5年前の妊娠2ヶ月の時の虫垂炎で、腹膜炎になるまで原因が分からず、遅れて手術するも、術後痛みが取れず、そんな事言うならもう一回お腹開けないとあかんぞと言われ、我慢した結果体内に糸がはずれて残っていた、5年間ずっと押さえたら痛かったのでおかしいなと思いながら手術なんて希望してまでしてもらいたいもんではないので、ほっといた
その糸が5年後に大腸を縛り付けて腸閉塞になった
怖がりな私も痛みが出て運ばれたらどうにかしてもらわないと終わりが来ないので、病院には行くけど、その時も原因が分からず、痛み止めも制限ギリギリまで打つも効かず、何日か痛みが続く中の検査
看護師さんがごめんねごめんねと何度も言ってくれていた
虫垂炎の時もこの腸閉塞と判明する時も検査に数日かかったけど、最初から最後まで、先生とのやり取りも検査もしっかり記憶に残っている
俎板の上の鯉とはこういう事かと
腸閉塞でも簡単なものもあれば、締め付けていたり、詰まって通らなければ命にかかわるらしい
そんな時の自分を振り返れば意外と冷静で怖がりな私なんてどこにいるんだというほどだった
命と向き合っているという事もなく
宣告されてからの手術なんていうのは心の準備も必要で大変なのかもしれないけど、いざとなると堂々としてる私がいるんだと発見しました
命乞いもしないし、不安も心配も恐怖もない、のたうち回る事も、暴言吐く事も無く
ただただ痛みの中にじーっと静かにいたって感じでした
この時の気づきは多く大きかった
あ~あれが命と向き合っていたという事なんだと後から考えた
その痛みに耐えている時には分からないけど、後に思うと多分凄い痛み
出産の時と比べものにならないぐらい
でも耐えれるんだと我ながら不思議なもんでした
きっといつでもどんな時でも納得して死ねたらどんなカタチでもいいんだろうな
今生きているという事は、その時はまだ死ねない時だったんだ
その後です
その前までは4次元5次元の世界を知ってはいましたが次にそれよりも高い次元あると知ったのは。
そしてスピリチュアルな世界に興味が深くなって行ったのは。
多分、その時にもう一回生まれ変わったのかも知れません
そう思ったらまたそのように生きないといけませんね
いつ命の期限が来ても怖くないけど、全うするには納得して終わりたいなと思う