歴史総合と「歴育」 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

2022年、高等学校の地歴公民の科目が大きく変わり、新たに「歴史総合」が創設される。

 

私は、個人的にはこの変化を心待ちにしている。

 

今現在、小学生やその保護者対象の「知育型歴史教育」や、「大人のためのやり直しの日本史」をNHk文化センター名古屋開講している。 

私はこれを歴育」と呼んでいる。

 

さらに小論文指導を通じて、「型」「知識」「暗記」「対処療法」ではない、教育の実践を日々行っている。

 

そうした活動の中で感じることは、子どもだけでなく、大人、むろん教員も、「インプット」は得意だが「アウトプット」は極めて苦手だということである。

 

これは、本人が自覚しているかしていないかの問題ではない。

 

アメリカやヨーロッパの生徒・学生は、日本の生徒に比べて、決して「知識」は豊富ではないが、その会話は「疑問」で構成され、会話の中で思考を深め本質に迫ることを得意としている。

私のダブルの甥や姪たちはまさにそうだ。

 

だからこそ、日本人の豊富な「知識」を生かすためには、この「疑問」と、その先にある「本質への探究」をしなければならない。

 

日本の中学や高校では、いまだに年代暗記を生徒に強いるという、もはや謎でしかない指導を行っている学校が多数ある。

 

こうした学校では、将来の歴史総合を「思考の探究」として生かすこともできなければ、現行の偏差値重視の歴史の受験対応すら全くできない。

 

「知識」を大切にしながら、それをどうアウトプットさせ、さらにそこから「思考」につなげ、全員が異なった道を通り、さらに「本質」に迫れる、さらには大学入試もそういう形態が多くなる。

なんと楽しいことか!

 

もちろん、偏差値の向上で大学への進学の道もあり、つまりは選択肢が増える。

 

「思考」への道は、偏差値以上に深く遠い道であり、それは容易ではなく、さらには指導者にコミュケーション能力が絶対に必要である。

 

まともに校内で生徒たちに挨拶もしない、そんな威張ることを目的とした指導者では、もう成り立たなくなる時代が確実に来ている。

 

単なる指導要領の改訂と考えてはならない。

その意識を、お子さんが小学生の親御さんはしっかりと持ち、2022年にむけて日々「思考」を「歴育」でお子さんと一緒に深めてほしい。