「人の役に立つ仕事をしたい」という軽薄さ | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

志望理由書のいわば定型文で、このようなものをよく目にする。

 

「人の役に立つ仕事をしたい」

 

それ自体が悪いことではないが、そもそも「人の役に立つ」とはどのようなことか、その本質を思考しなければ、よい小論文にはならない。

 

「人の役に立つ」

 

実際は、ほとんどの仕事が概念的には人の役に立っている。

むろん、そこに対価が発生するビジネスと、無償のボランティアなどの境目はあるが、おおよそは人の役に立たなければ、仕事として成り立たない。

 

では、この表現を使った生徒は、いったい、どうしてこの表現を使ったのだろうか。

多くの場合は、残念ながら、なんとなく、かっこいい表現、突き詰めていくとそうなってしまう。

何という軽薄さか・・・。

 

だから、「型」で書くことは、本当につまらないことになる。

 

志望理由書と小論文は、それこそ本質的に思考的なアプローチをしなければならないという意味ではまったく同じであり、「型」で書いたり、「解答」があるようなものは、思考の結果ではない。

 

今日も、ある高校での小論文指導で、最後の結論が、「間違っている」として「×」を打たれたものを見せてもらった。

何が「×」かと読んでみると、指示された結論になっていなかったからだということがわかった。

つまりは「解答」が違ったらしい。

 

志望理由書の内容が人と被る可能性は、本来は皆無で、100人が同じ大学、同じ学部学科を受験すれば、全く内容の異なる志望理由書が100個できるのが普通であろう。

 

面接でも、過去の問答集を参考しに、「解答」を作成、それを必死に覚える・・・

これも「型」である。

こんなことを大学が望んでいると本気で思うのだろうか????

 

志望理由書を書く・・・

それは、思考と疑問を繰り返し、自分の「志」の本質を書くものであり、人のものを参考にしたり、単にかっこいい表現を使うのは、まったく論外であることを忘れてはならない。