なぜ勉強や学問をするのか | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

「勉強は何のためにするのか?」

この命題には本来明確な答えなどはないかもしれず、また仮に答えにたどり着いても個々の価値観にその答えは大きく左右されるかもしれない。
つまり、この答えとは極めて主観的であり、どのような答えも万人には受け入れられない。
だが、少なくとも私はこう信じている答えを持っている。

勉強することは将来の選択肢を豊富とする。
であれば、目先の受験競争に勝つことも当然ながら答えとなろう。
また、多くの知識を身に着けることは知恵となり、生きていく術を見出す背景となることも事実だ。

しかし、勉強をする意義とは、きっともっと素晴らしいものであるように思う。

数学の因数分解は将来の仕事に役に立たないかもしれない。
ミトコンドリアを知ることはお金儲けには繋がらない。
その反面、英語を学ぶことはきっと実際に役に立つのだろう。

だが、私は思う。
勉強することによって人は「理性」を得ることができる。


この世には「差別」「暴力」「貧困」「戦争」といった不条理が溢れ、それは学校内でも「いじめ」といった許されざる行為が時に横行する。

むろん、大人の世界でも同様だ。


一見、将来に役立たなさそうな事柄も、すべては理性を育む源となる。
すべての人々がより良い理性を得た時、上記のような世の不条理はなくなるのではないだろうか。

私は歴史が専門であるがゆえに、歴史しかわからないが、『史記』を漢文の時間に読み、項羽の詩を知ることは、きっと理性に繋がる。

鎌倉武士たちの潔さと、一所懸命を知ることは、きっと理性に繋がる。


むろんお金儲けには繋がらない。

こうしたことは綺麗ごとかもしれないし、こんな答えは幻想だと多くの人は思うだろう。
しかもあまり論理性もない。

 

受験指導が大切であり、保護者や生徒の要望であることもわかっている。
その上で思うことである。

「なぜ勉強をするのか?」

 

さらには

 

「なぜ学問は大切か?」

「それは理性を得るためである」

その理性とは、きっと「「差別」「暴力」「貧困」「戦争」といった不条理を凌駕する。
人生において、ろくに勉強などしなかった私は、人に笑われながらもそう信じている。