自分のやりたいことを選ぶ | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

終身雇用、年功序列型の日本的経営が定着したのは、それほど遠い過去のことではない。

高度経済成長期に、毎年のように右肩上がりの経済状況のなかで、生まれたシステムである。

 

まもなく、平成の世がおわる。

日本的経営が定着した昭和はすでに大昔であり、来年には新しい世が始まる。だからではないが、その新しい世こそ、日本的経営に縛られない生き方ができるといいなあと思う。

 

就職時は全員が同じ時期、いったん就職すれば転職は困難で、職場内は同調圧力に溢れ、いまだ「我慢」が美徳である。

 

本来、仕事とは「やりがい」であり、もしくは「生活の糧」である。

その両方が気持ちよく並立してこそ、仕事は素晴らしきものになる。

 

なにを理想論と思われるだろうが、毎年のように自殺者が3万人を超えるこの国で、過去のシステムが破綻していることは明白であり、それでもそのシステムに固執する理由が私にはわからない。

 

もっと、「やりたいことを選べる」社会になって欲しい。

そのためには努力しろ、いい大学に行けなど言われそうだが、そうした条件を満たしたとしても、心の病に陥る人は少なくなく、さらに「我慢」を強いられる。

 

ブラックだのパワハラなど、どうしてそんなものと戦うために仕事をしているのか?

 

逃げ出したって仕事はないし、生活に困るというが、逃げ出した先のチャレンジのほうが、どれだけ前向きでやりがいがあるか、私は逃げ出して学んだ。

 

きれいごとと言われようがなんだろうが、仕事は苦行ではなく、自己の達成感や満足度が絶対に必要で、同時に自分が本当に必要とされている場所は必ずある。

 

上司や同僚との「戦い」とはいかにもむなしく、その戦いには多くの場合、意義は見いだせない。

企業でも学校でも、そこには「文化」があり、その「文化」自体に戦いを挑めば、ほとんどの場合病むことになり、最悪の場合、自ら人生を閉じる選択となる。

なんとも悲しい。

 

人生で挑戦し努力してきたのは、そんな戦いをするためか?

自分の理想とは、自分で「勝ち得る」のではなく「見つける」ものであり、そここそが自分が輝く場所である。

 

不毛な「戦い」とは、人生の大切な時間の浪費であり、そこにはなんの蓄積もない。

我慢できる人はすごいとは思うが、私は少なくとも真似はしたくない。

 

本当に「自分がやりたいことを選ぶ」、それこそが人生を豊かにすると私は、私見ながら確信している。