田中角栄の登場は、衝撃的であった。
戦前、大正期の加藤高明総理大臣以降、帝国大学出身、陸軍士官学校・海軍兵学校出身でない総理大臣は、わずかに慶應義塾出身の犬養毅だけである。
かくいう犬養とて、中退時には慶應義塾は大学ではない。
戦後になっても、帝国大学出身の総理大臣が続き、田中角栄以前は、早稲田出身の石橋湛山をのぞき、すべて帝国大学出身である。
そう思えば、田中角栄の衝撃がわかるであろう。
その田中角栄への評価は賛否両論あろうが、少なくとも現在にいたるまで一定以上の人気を維持していることは事実である。
その田中角栄の言葉に以下のようなことがある。
「好きにやれ。責任は私がとる」
企業で、このような言葉を言う人はあろうが、田中角栄の言葉ほどは本気ではなく、田中角栄は失敗の責任を、部下を叱らず自分でとった。
それがいまなお続く、田中角栄論に繋がるのであろう?
少なくとも、いわゆるトカゲのしっぽ切りはしなかった。
いま、教育の世界で、生徒は先生に忖度する。
ことに「評定」という人質は、先生の立場を強くし、中学生も高校生も、生徒に「忖度」を学ばせる。
いうまでもなく、これはパワハラの温床となる。
よく学校で書かされる行事ごとの「感想文」なるものなどは、その典型で、内容はまさに提灯記事が続き、最後の1行まで、生徒には見事に埋める技術が育っていく。
むろん、本心ではない。
ある高校の生徒会長が言っていた。
会長に選ばれ、学校を良き方向に変えようと、先生に様々な提案をした。
するとこんな返答が返ってきた。
「お前に提案する権利はない」
「どうせ指定校推薦が欲しいから会長をしているんだろう」
彼は、生徒のために改革意欲に燃え、ことに校則などを中心に、まじめに文書を作り、学校側に提案をしようとした。
しかし、結果として、提案することすら受け入れられなかった。
生徒会は自治的な組織であり、提案すらを封じ込めるのは、全体主義であろう。
こうしたことは珍しいことではない。
平成も終わろうとしいる時代、「先生=上」「生徒=下」の昭和感覚をいつまで続けるのだろうか。
もちろん、学校によってさまざまな困難があることは理解している。
しかし、先生方の服装や言動などなどを、生徒はよく観察をしていることをわかっているだろうか。
社会で常識のモラルやマナーはともかく、生徒の考えや主張に、そろそろ「対等」に向き合ってはどうだろうか。
「許可」するではなく、話し合いの「結論」を前提にできないだろうか。
そもそも学校は憲法を超える権利などはなく、そうなれば生徒の基本的人権は尊重され、それは先生と「同等」であられねばならい。
次の年号の時代は、先生と生徒が「対等」に向き合える時代になって欲しいと切に願う。