高校生の小論文指導を始めてもう30年になる。
学校と言う組織から離れて1年、それでもなおまだ小論文指導をしている。
毎日のように10時間以上、対話と思考の中にいる。9月から休んだ日はほんの2 、3日、確かに体は疲れるしだんだんとストレスも大きくなる。
ただこの仕事をしていると、もしかしたら少なからず自分が社会や教育のために貢献しているのではないかと感じることもできる。
無論それは錯覚である可能性も高く、実際は自己満足なのかもしれない。
合格した生徒が報告をしてくれる。
このような仕事をしていると、それは確かに合格実績と言うものになるし、ビジネスをしていく上では大切なことだ。
だが現実は少し異なる。
合格とは本来その生徒の努力によって勝ち取ったものであって、指導者が勝ち取ったものではない。
先日、東京のある大学に総合型入試で合格した生徒がいる。
この制度は、高校2年生の終わりからずっと長坂塾に通ってくれたにも関わらず、現役の時に合格に導くことができず、浪人してから最初の大学を二次選考で不合格となってしまっていた。
言うまでもないことだが、この不合格と言うのは、すべて私の力不足が原因である。
しかし、この生徒は自分の力でその状況を克服し努力を繰り返し、東京の大学に合格することができた。
無論、私が役に立ったことなど何もなく、ただただその生徒が頑張った結果である。
この仕事をしていると、当然ながらお叱りを受けることが多い。
お金をとって教育をするとは何事だ
先日ある私立高校の先生からこのようにお叱りを受けた。
ちゃんと生徒を人として見るべきだ
先日ある保護者の方からこのようなお叱りを受けた。
こういったことというのは、全て受け入れなければならない。
言うまでもないことだが、それらはある面において事実であり、生徒や保護者、また社会のためになんら貢献してないことも事実であるからだ。
できることであれば、ほんの少しでもいいので生徒や保護者、さらにより良い社会の構築のために貢献できたらと思う。
残念ながら、上記の先生や保護者の言う通り、まだまだ私は未熟であり、言うまでもないことだが人から感謝されたり、尊敬されたりといったようなものであるはずもない。
私は子供の頃から怠け者で、努力をすることを知らず、人と仲良くできず、感謝や思いやりというものを持っていなかったと思う。
ここ20年の間、そういった自分を少しでも変えたい、少しでも前向きになりたい、少しでも良き人間になりたいと、自分なりには努力をしてきたが、人間の本質を変える事はそんなに簡単なことでは無い。
東京の大学に合格した受験生を見ていると、その18歳19歳への生き方は、56歳の私よりはるかに輝いて見えるし、そのような子供を育てることができる保護者の方の素晴らしさの前には、私の努力など何の意味がないようにも感じる。
あと3年ほどすると還暦を迎える。
私が生まれた1964年の男性の平均寿命は63歳。という事はあと5年もすれば、天寿と言うことになるかもしれない。
もしかするとあと残された時間は5年かもしれず、その残り時間の中でなまけた人生の借金は返済できるのかなと思う。
厳しいお叱りを受けることが今の私にはもっともなことであり、その一言一言を真摯に受け止め、ほんのわずかでもいいので、人や社会に貢献できる人間になるための努力を死ぬまで続けていきたいと思う。そしてできることであれば、長期の受験生を育てた保護者のような人間になって人生を終えることができればと思う。