真昼ちゃんが日本に着いたとき、父君はまだ生きていた。

 もし、それを『生きている』と表現してもよいならば、その通りだった。しかし、意識は混濁し、もはや誰が誰なのかもわからず、食事もその言葉が示すような(ほう)(かつ)した意味あいを失ったもの――チューブから栄養成分が送られるといったものだった。

「あれは、ひどいことだったわ。父の魂は既にそこには無かったのよ。あの人は見栄っ張りで、いつも身なりをきちんとしていたの。(せん)(だん)学園の理事長様として、それに相応(ふさわ)しい格好をするよう気遣ってたのよ。髪の毛一本だってほつれてなかったの。それが――」

 そう言って、真昼ちゃんは目をつむった。

「目を閉じると、思い浮かぶことがあるの。夢に見ることもね。父はベッドに横たわり、様々な色のチューブがいろんなとこに付けられていたわ。機械の音がずっと鳴ってたの。その機械が、父をこちらの世界にかろうじて繋ぎとめていたのね。母さんはそんな状態であっても一日でも長く生きて欲しかったのよ。でも、そんなの手前勝手な理由よね。父はなにも考えられない状態だったのだろうし、私にはそんなことを求めているとはとても思えなかったわ。

 私はそういったものを全部外して欲しいって、お医者に言ったわ。

 もちろん、それが聞きいれられることはなかったけどね。でも、私はそうすべきだって思ったのよ。今だってそう思ってるわ。そこには憎しみも愛情もないの。そんな個別の問題じゃないの。人間の、その生きている意味の問題よ」 

 

 僕は速記のように真昼ちゃんの言葉を書き留めながら、様々なことを考えていた。

 その日は日曜日で、病院に面した公園からは子供たちのはしゃぎまわる声が聞こえていた。噴水があって、そのまわりで水遊びをしているのだ。子供たちは水の止まったところに足を置き、水が噴き出るとけたたましく笑った。

 窓から下を覗けば、その光景を見ることができたはずだ。しかし、僕のところから見えるのはいつもの糸杉のてっぺんだけだった。盛んに燃えさかる太陽の熱で糸杉はくたびれているようだった。

「父と同じようになるなんて思ってもみなかったわ」

 真昼ちゃんは少し笑いながら言った。

「私の中にも父を(むしば)んでいったのと同じものがいるのよね。それが、私を父のところへ連れ去って行くってわけ。そう考えると、あんなに嫌っていた父に妙な愛着を持つようになったの。不思議なものよね」

 僕は真昼ちゃんを見た。ペンはポケットにしまって、ノートも閉じて。

 いつものことだけど僕はなんて言ったらいいかわからなかった。口を開けば言葉は出てきたのだろう。しかし、それは簡単なことではなかった。真昼ちゃんも僕を見つめていた。

 それから、その大きな手を振って「清春、いいわ」と言った。

「あんた、なにか優しいことを言おうとしてるんでしょ? でも、いいわ。そういうのが必要ないときもあるのよ。憶えておきなさい」

 

 

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