温佳にあらわれた変化は全体的には良い影響をもたらした。

 

 ただ、母さんにとってはそうでない部分もあるようだった。とくに大切な仕事が入ってるときには悪い影響を過剰に感じるようで、FishBowlの敷地をうろつきまわるようになった。響き渡るかんせいは母さんにとってノイズでしかなかったのだ。

 

「ほんと、うるさくってしょうがないわ。ね、清春、ちょっと言ってきてくれない? もう少し――ううん、かなり静かにしろって」

 

 変化があったにせよ、大人たちが温佳になにか伝えたいとき僕が使われるのは変わりなかった。彼らにとって僕はいつまでも《温佳担当》なのだ。

 

「なんで? そんなの自分で言ってよ」

 

 僕は整理運動をしていた。走った後で汗だくだったし、息もあがっていた。

 

「嫌よ。私は今ほんとうに忙しいの。やらなきゃならないことがいっぱいあるんだから」

 

 母さんは黒い長袖のブラウスに同じく黒のロングスカート、これまた黒い大振りな帽子にサングラスといった格好だった。その上、薄手のマフラーと手袋もしていた。女優はいたく陽光を嫌うのだ。僕は身体を動かしながら、その姿をちらちら見ていた。FishBowlでは見馴れたものになっていたけど、絵美や加奈子からするとそれは「面白いもの」に映るようだった。三人で集まっては笑いあってるのを何度も見たことがあった。

 

「なによ」と母さんは言った。

 

「別に」と僕はこたえた。

 

 たぶん、そういうのもかんさわるのだろう。常に自分がどう思われてるかを敏感に察知し、軌道修正しながら生きていた母さんは笑われてるのもすぐにわかったはずだ。まあ、これについては修正する必要を認めなかったものの、そのぶん気にくわなかったのだ。

 

「私、ほんとに大変なの。一秒だって無駄にできないのよ。祐子がどういう女なのか考えなくちゃならないんだから。どうしてあんなことができたのか、なにを思ってその後を過ごすのか、ずっと考えてるのよ。それがほんと嫌になっちゃう」

 

 この「祐子」というのは、母さんにあたえられていた役の名前だ。このように母さんは自分にわかってることは相手にとってもそうであるかのように話した。僕はその部分を聞き流し、要点だけつかむようにしていた。そうしないと会話が成立しないのだ。たとえば「祐子って誰?」なんて訊いたら、しばらくそれについての話になり、そもそもの内容がわからなくなってしまうわけだ。

 

「わかったよ。言えたら言っとく」

 

 半分以上ほど面倒になっていた僕は力なくこたえた。

 

「お願いよ。防音になってても聞こえてくるんだから、あの三馬鹿どもの声は。ほんと、いいかげんにして欲しいわ」

 

 母さんは額を覆い、こめかみを押さえていた。

 

「でも、ま、あなたの言うことなら聞くでしょ。なんといっても、あの子はあなたの妹なんだしね」

 

 あんたの娘でもあるけどね――僕は心の中でそう言った。いつかはこの母娘が心底理解しあい、僕の手をわずらわせることがなくなればいいのに、とも思った。しかし、そういう状態はこれから二十年以上経った後にも実現しない。そう考えると、それはそれで凄いことのように思える。

 

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