この年の夏に父さんはまた仕事を増やした。ただ、今回は小説を書くとかではなかった。深夜番組にも出るようになったのだ。
『社長と草介』という幾分復古調にも思えるその番組において、父さんは浅見師匠から引き継いだネタを――テレビで扱えるものに改編させた上で――やっていた。
また、シゲおじさんと新たな漫才コンビ(その名も『社長と草介』だった)を組んでもいた。こちらのネタはすべて新たにつくったものだったけど、ヒール/ソール時代に近い過激な時事ネタが中心だった。
きっと、父さんは芸人としての生き方を純粋に見つめ直そうとしていたのだと思う。あるいは、周囲からいなくなってしまった者たちをそうやって生きながらえさせようとしていたのかもしれない。浅見師匠とやっていたコントをし、ヒール/ソール全盛期を思わせるネタを披露していたのにはそういう感傷的な動機もあったはずだ。
しかし、内面はともかくとして、テレビにあらわれる父さんは世間の者に感傷など気取られることなく、『なんかくだらねえこと』をしつづけていた。
母さんはそういう父さんを見てるのが好きなようだった。後にこの頃のことが話題になったとき、このように言った。
「草介は昔の自分に戻りたかったのよ。私と一緒に住んでいた頃の自分にね」
温佳はそれを聞くなり、顔を激しく歪めた。まるで父さんが乗りうつったかのようだった。
「それはないんじゃない? よくわからないけど、あたしが草介おじさんだったら、その頃には戻りたくないって思うけど」
シゲおじさんはこの展開に気を良くしていた。相方を務めることには辟易していたものの、それで父さんが立ちなおるのであればお安いものと思ったのだろう、腕まくりするかのように張り切っていた。
「俺は梵兄さんみたいにはできないよ。でも、ボスがまた漫才したいっていうんだからとことんつきあうしかないね。いや、もう事務所は大盛り上がりさ。古くからいるのはああいうボスを見て弟子になりたいって思った連中だろ? みんな興奮してるね」
そういうシゲおじさんもそうとう興奮していた。血色も良くなり、五歳は若返ったかのようだった。父さんは自らの心境を言葉に置き換えたりしなかったけど(ノートにも書いてなかった。この頃にはそのほぼすべてが漫才やコントのネタで埋められていた)、シゲおじさんは「原点回帰」と言っていた。広げすぎた仕事を整理し、より純粋に芸人であることに立ち返るというのをそれは示していた。
もちろん、真昼ちゃんもこの展開を歓迎していた。癒えない傷はなく、またその傷を癒やすには休息と友人と美味しく健康的な食事が必要という信念は正しかったと考えていたのだろう、それまで以上に手の込んだ料理を拵えるようになった。井田隆徳はいまだ復調してないようだったから、これよりしばらく真昼ちゃんの心配は彼と温佳に向けられることになった。不安のタネは尽きないけど、まあ、ひとつだけ減ったわけだ。
一九九〇年の半分はこのように過ぎていった。
僕はまだ進む方向を決めかねていて、それも真昼ちゃんの不安のタネになったはずだけど、優先順位が低かったのだろう、あまりうるさく言ってこなかった。とはいえ、これは僕自身の問題なのだ。急かされなくても決めずにいられるわけがなかった。
ただ、あまり優秀といえない(もちろんこれは謙遜ではない)僕に選択できることは限られていた。
三月には実に様々な職業プランが示されたけど、牧師やカウンセラーなんかは論外だし(自分の問題すら解決できないのに他人のにまで手を伸ばしたいとは思えなかった)、人になにかを教えるなんてのも苦手なので教員も無しだ。
芸人や役者、陶芸家、小説家という子供の頃から馴れ親しんだ職業にはFishBowlの大人たちによる手垢がびっしりとついていたから、これまた嫌だった(そこに新たな手垢を追加するのは無理と思えたのだ)。
父さんが言っていた「ずっと走っていて、それで食っていく」というのには興味を持てたけど、僕にとって走ることは他者と比べて速くという部分を抜きにしたものになっていた。出版関係やコンビニというのも出たけど、真昼ちゃんに縁を切られたくなかった。
そうなると、残された選択肢はカメラになる。
このように消去法的に選んだわけではなかったけど、いずれ何者かにならなければならないなら、やはり興味のある方向へ進みたかった。FishBowlの大人たちは全員が自分のなりたい存在になっていたので、そのように考えたのも当然だったのかもしれない。
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