それからの時間を僕はほとんどなにも考えずに過ごした。
感情だけが激しく動いていた。それはあちこちへ向けられ、おさまることがなかった。芯がなかったのだ。感情をまとめあげるために必要な芯が。
いや、より正確にいうと、長い時間かけてつくりあげた芯を使えなかったのだ。
ドアが薄く開いた。
暗がりに光が洩れ、細い影が押されるように出た。一度ドアの方を振り返り、絵美はゆっくり近づいてきた。
「やあ」と僕は言った。
「こんばんは」と絵美は言った。
それは、その日二度目の「やあ」と「こんばんは」だった。僕は非常にちぐはぐな気分になっていた。
「あの、聞いたんですよね?」
「ああ」と言って、僕は「うん」と言い直した。
「あの、」
絵美はずっとうつむいていた。でも、恥ずかしがってるのはわかった。声はうわずっていたし、震えてもいた。
「私、お兄さんのことが、その、聞いたとは思うんですけど、好きで」
「ああ」
絵美は強く首を引いた。僕はしっかりとその顔を見た。たしかに絵美はかわいかった。
「いや、ごめん。ちゃんと聞いてるから」
「はい。――あの、私は言わなくてもいいかなって思ってたんですけど。その、片思いでいいかなって。だけど、温佳がどうしても言わなきゃ駄目だって。――だからこうしてるわけじゃないんですけど」
僕は象の背中に腰をおろし、顔をあげた。
絵美は両手をかたく結んで、解き、また握りあわせた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。それにあわせてどこかの犬が吠えた。悲しそうな声だった。それがやむと、静かすぎるくらいになった。
すべてのものが僕を――表情を、心の動きを、口から出る言葉を見つめてるようだった。
「あの、もしよかったら、私とつきあってくれませんか?」
赤い顔を見あげながら、僕は言葉が出てくるのを待った。あたえられた台詞があるなら出てくるはずだ――そう考えていたのだ。そのとき、がさがさという音が聞こえた。ハーブ園の方を窺うと、暗がりに人影が見えた。
「井田隆徳だ」
絵美は自分が出てきたドアを見た。痛々しいほど気まずさを感じてるようだった。
「あの、」と絵美は囁いた。「返事、待ってますから」
「ああ、わかった」
絵美は駆け足で戻っていった。
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