生徒として教育するんじゃあ無くて、教師として教育する。 | キンジの自分軸哲学

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~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

※この記事は、2015/7/01の記事の、リライトとなっております。

 

 

何事も、ただ、

生徒として教育される事よりも、

教師として、誰かに教える前提で、

物事を学んでいく方が、上達が早いものではある事でしょう・・・・・!!

 

 

 

もっと言えば、

 

教師と言う、教える前提のポジションってものを、

意識する事で、

 

隠すべき情報ってものも、明確になるだろうし、

 

またまた、

 

何よりも、

教える為の順序ってものを、

意識に登らせることにもなります。

 

 

 

順序が存在する所には、

秩序ってものが、生まれるものではあるでしょうから、

 

コミュニティとか、コミュニケーションを前提とした、

言葉から始まる関係性とか、

言葉からを前提とした、繋がりの為には、

 

必要不可欠な要素になってくるだろうし、

 

まぁ、

その言葉の裏でもあり、コンテキストに入ってくるのは、

 

勿論、

その発する人の経験でもあり、行動となってくるのも、

 

また、

 

当たり前になってくるのでしょうが、

 

だからこそ、

 

その言葉にも、力が宿ってくるものに、なってくるのでしょうね・・・・・・(^^)

 

 

 

それによって、

何よりも、

 

その場とか、環境とか、構造的な、

暗黙知の部分に当たってくるであろう、

 

抽象意識でもある、共有意識の部分に、違いが出てきて、

 

秩序と規律と、上達ってものが、

 

どれかを犠牲にする事なく、

成り立たせる事が、可能になってくるものでもある事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

 

自分勝手に、秩序と規律を無視した上で、

上達だけを求める事は、

場を限定する必要性もあるのでしょうし、

 

それさえすらも、

結局は、

 

その自分自身の為の、

秩序や規律ってものが、必要となるだろうし、

 

その段取りでもあり、順序を、

ブラッシュアップして、最適化し続けていかない事には、

 

中々、

 

自分自身の納得を得ながら、生きていくことが、

難しくもなっていくのでもありますね・・・・・・???

 

 

 

ま、

 

上達を求める場であったとしても、

 

そのような、

 

秩序性とか、規律性の循環ってものは、

ダイレクトに、自分自身に返ってくるものでもありますし、

 

まさに、鏡の法則の如くでもあるのでしょうが、

 

だからこそ、

 

自分自身の趣向を交えた上での、

順序とか、段取りってものが、

 

細かく言ってみれば、

誰しもが、各々に必要となる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

だからこそ、

 

抽象度意識の、高い領域こそ、

共有するには望ましいものではありますが・・・・・、

 

ま、

各々が、

 

その、ゴールのネタバレを回避する為にも、

 

段取りとか、順序ってものを、

決定どころか、体現していく必要性があるって事でもあるのでしょうね・・・・・!!

 

 

 

それらを踏まえて、

今回は、

 

生徒として教育するんじゃあ無くて、教師として教育する。

 

ってテーマに沿って、考察して見ましたよ〜(^^)/

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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